さようなら、深刻さ。

こんにちは。

「わたしに還るyoga」のクラスを開いています、山崎大です。

日増しに暖かくなり、日中は汗ばむような日も増えてきました。

さりとてここ安曇野の朝はやはり氣持ちがいいものです。

鳥のさえずりと、涼しく凛とした空氣が氣持ちを整えてくれます。

世界中の町に滞在しましたが、やはり今時期の安曇野はいいです。氣持ちのよいところです。

一番最近海外へ行ったのは半年前でしたので、もう大分日本の暮らしに慣れてきています。

日本の暮らしに慣れてきて、時々思うことがあります。

日本にいると、何かと深刻になりやすい・・

なにも皆がそうであるとは思いませんが、海外に比べ整った環境を持ちながらも深刻そうな顔つきの方々が多いように感じたのでした。

こんなにもすばらしい環境があり、緑豊かな国、日本。

にもかかわらず、深刻な方が多いのはなぜ・・?

わたし自身もともすれば、深刻になりやすい性質をもっておりましたので、深刻になることは可能です。

ですが、今は深刻さとは距離を置き、疎遠にしています。

ときどき、深刻さの方から距離を縮めようとアプローチしてきますが、あくまでも疎遠にしています。

もう泥沼の間柄になり、わたしの方から以前別れを突きつけた経緯もあり、距離をとっています。

では、どうやって深刻さと距離を置き疎遠にするのか。

そのためには、「深刻さ」とはどういう存在なのかということをきっちりと理解していることが重要になると感じています。

距離をとるためには、距離をとろうとしている存在が何なのかをしっかりと把握することが必要になります。

そして深刻さとは目に見えません。

目に見えないものと距離を取る。

こういう類いのものを見抜いてゆく時に、瞑想が役立つように感じます。

わたし自身が見た「深刻さ」の正体を明らかにし、お読みの方にも「深刻さ」と疎遠になっていただけたらと思っています。

深刻さと伴にいると感じたとき、瞳を閉じてみます。

「ああ、今、深刻に思い詰めているのだな」

と感じてみます。

それが良いでも、悪いでもなく、ただただ感じてみます。

次第に「深刻さ」の親元が顔をのぞかせてきます。

親元は、「まじめさ」でした。

きっと不真面目な人は、深刻にはならないのでしょう。

では、不真面目でいいのかといったら・・それもそれですので、まじめでありたいとは思います。

大切なことは、「真面目は、良くも悪くも作用する。」ということを感じてゆき、何に真面目であるのかを自己決定してゆくことにあると感じます。

言葉は悪いですが、「くそ真面目」という言葉があるように、くそに対して真面目であっては融通が利かず困り者です。

何に真面目であるかということが、とてもとても大切だと感じます。

信じるものに対して真面目。

きっと、これが大切なのでしょう。

今、問題なのは、信じるものが外側から与えられているということです。

「〜すべき。〜せねばならない。」というように、さも当然というかの如く、外側から与えられています。

深刻さの親元は「真面目さ」であり、その真面目さを悪用するのが「〜べき・〜ねば」という考えだと感じます。

こちらに関しては、「ベッキベキの壁・ネバネバのnever」で詳しく綴っていますのでお読みいただけたら幸いです。

盗みとは、盗む「べき」ではないからしないのではなく、盗まれた方の心が痛むからしないのです。

暴力も、人を殴る「べき」ではないからしないのではなく、痛みが分かるからしないのです。

そんな当然のことですが今の時代、ともすると忘れてしまう方が多くいるように感じます。

何かの際に「これはどうするのが正解?」ともしも思うのであれば、注意が必要です。

正解を選ぶことに慣れてしまうと、拳銃で人を見つけたら引き金を引くのが正解だと教えられていたら、その正解を選んでしまう危うさがあることに氣がつく必要があります。

言葉は悪いですが、それがくそ真面目であるということなのだと感じます。

深刻とは、「〜べき・〜ねば」という本来真面目にならなくてよい考えに真面目になってしまっている状況だと思うのです。

本来信じる必要のある「こころ」が置いてきぼりになり、そのこころが苦しんでいるのだと感じます。

「こころ」以外に本来信じるものはないとわたしは感じています。

こころに聞けば、今することがきっと分かります。

深刻さとは、こころが苦しんでいるというサインなのではないでしょうか。

こころには、本当は向かいたい場所があるのです。

それが、「ベキベキの壁」に阻まれ、「ネバネバの糸」にからめ取られようとしているのだと感じます。

そのことに氣がつき、考えのどこに「〜べき」や「〜ねば」があったのか、そしてそれらが外側から与えられた見えない檻であることを見破っていきます。

深刻さの親元である真面目さと、それにくっついている「〜べき・〜ねば」は次第にその姿を明らかにしていきます。

こころに氣づけば氣づくほど、自らに張り付いていた「〜ベキ・〜ねば」が見えてくると感じています。

こころに氣づくためには、瞳を閉じて「今のあるがままを感じてゆくこと」

それが瞑想だと感じています。

今のあるがままを感じ、その感じているものこそが誰の指図も受けず信じるものであるということ。

その時、深刻さの付け入る余地はなく、深刻さはただ立ち去ってゆくのみになると感じています。

深刻さとの距離の取り方を綴りました。

すぐさま効果が出るものではないのかもしれません。

続けるうちに少しずつ、氣がついた時にはすっかりと。そんな道なのかもしれません。

こころを感じる瞑想。

またこちらに綴っていけたらと感じています。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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