「開き直る」から、開くを紐解く。

こんにちは。

「わたしに還るyoga」のクラスを開いています、山崎大です。

今朝の安曇野は、雨が降っています。

6月に入り、雨が続く季節がやってきそうです。

くせ毛の僕は、くせ毛であることが嫌でストレートパーマをかけていた時期がありました。

雨が降ると、湿氣でパーマをかけているにもかかわらず髪がうねり出し、残念な氣持ちになっていたことを懐かしく思い出します。

今では、開き直っているため、くせ毛がさらにうねり出していく様子を微笑みながら雨を楽しんでいます。

雨のにほいも空氣に混じり、なんだか落ちついた氣持ちになります。

さて、前回に続き開き治りについて、綴っていきたいと思います。

 

「開く」と言う言葉には、深い意味が込められていると感じています。

冒頭に掲げた開き治るですが、「開く」には、同時に治ると言う意味も込められているようです。

音で見てゆくと、「開く」は「平く」であり、物事を収め調和させることにつながり、治るという意味が込められています。

文字を見てゆくと、「開く」は、門に鳥居と書きます。

では、反対の「閉ざす」はどうかと言うと、門に才です。

かつては、闇も「とざす」と読んだようで、意味も近い漢字です。

こちらは、門に音です。

才能を門の中に隠してしまうことが、閉ざすことであり、音(本音)を門の中に隠してしまうことが闇となると考えられます。

才能を発揮し、本音を出していったとき、闇や閉ざされた状態から「門」となり何かを受け入れる余地が生まれてくるのだと感じます。

そこに入り込むのが、鳥居となったとき、「開かれ」てくるのだと感じますが、では鳥居とは何なのでしょうか?

様々な諸説があり、はっきりしないのですが、一説によると神の前まで導く導き手は鳥(ヤタガラス)であると言われています。

ある瞑想中、空間全体にまばゆい光が溢れ、わたしの意識を持ち上げていった体験があり、その光が鳥の形をしていたことから個人的には鳥居の一説は頷けることではありますが、すべての人に共感していただくことができない内容であると感じています。

いずれにせよ、このような漢字の説は、物理的な現象世界の物事を文字に起こしたものではなく、内なる世界、瞳を閉じて感じる世界を文字という形に起こしてあるのだと言う方が理に適っています。

個人的に鳥居をひも解いてみたところ、鳥居とは、鳥が居ると書くように、「鳥の止まり木」を示します。

では、なぜ「鳥の止まり木」を神社の入り口に配置しているのでしょうか?

門の中に入れると、「開く」ことになるのでしょうか?

それには、鳥という生命を紐解いてみる必要があります。

鳥という生命をひも解いてみると、鳥とは、動物に朝を告げる役割があるということが分かりました。

「ちゅんちゅん」

「カッコー」

「コケコッコー」

朝、このような音と伴に目を覚ましたら心地いいです。

「ピピピピッピピピピッ!」

「ジリリリリリリリリッ!」

これでは、朝が嫌いになってしまうかもしれません。

氣持ちよさというものは、生体の細胞レベルでの反応ですので、体が求めているということだと言えます。

そして鳥の声は、人間のみならずあらゆる動物に朝を告げるということが分かっているようです。

 

 

その証拠に、鳥のまぶたは他の動物とは逆に開閉します。

人間は、シャッターが閉まるように、上から下にまぶたが閉まります。

「さようなら。おやすみ〜」の合図です。

鳥は、逆で上から下にまぶたが開きます。

「こんにちは。おはよう〜」の合図です。

まさに自然界がそのように作ったといえる仕組みだと感じます。

「鳥とは、朝を告げる生き物」その鳥を招き入れる止まり木が鳥居です。

では、鳥がとまる木というものは、どんな木かと言えば、雨風を凌げる木であり、日差しを遮る木であり、落ちついている木です。

木を「氣」と変えてみれば、それがこころの状態と繋がっていきます。

雨風や日差しをも受け入れる心を持ち、落ち着き、穏やかであるとき、鳥はそう言ったこころの持ち主の肩にとまるのでしょう。

そして、神社に入る時は、こころから伸びる両手を合わせ、こころを一つにし、鳥がとまるようなこころの状態を作ってから、一歩踏み入れてゆく。ということなのではないでしょうか?

そして、鳥がとまるこころを持ったとき、朝(始まり)を告げる鳥がやってきて、まさに開かれてゆく。

「開く」という文字には、そのような意味が込められていると感じています。

今日も、こころ穏やかに、開き直っていきたいと思います。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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開き治った体験をしたインドのプシュカルの夕暮れ。

諦めが、明らかにし、世界を開く。

こんにちは。

「わたしに還るyoga」のクラスを開いています、山崎大です。

6月に入り、しばらくの時が経ちました。

安曇野には田園風景が広がっています。

稲の子どもたちが少しずつ成長を始め、可愛らしく風に揺れています。

日増しに暑くなり、草花を始め、緑たちはエネルギーに満ち満ちています。

世界を旅していた当時、荷物を最小に押さえたいという思いと、野宿する際に寒いことに耐えられないとの思いから、その国の夏を選び、旅をしていました。

夏が近づき、暑くなってくると当時の旅を思うのか、旅に思いを馳せ、ふとした時に情景が重なってきます。

旅をしていたとき、本を綴っていました。

「生き方のstyleと名付けたそれは、今でも時々ご希望を頂いています。

お手に取ってくださっている方々、ありがとうございます。

本を綴るようになってからと言うもの、言葉というものに大層な興味がわくようになりました。

その興味は、瞑想やヨガと出逢ったのちにはより一層強いものとなり、わたし自身の根幹を支えてくれているように思います。

少し話は変わりますが、瞑想でわたしは音をとても大切にしています。

音は、空間に響く振動であり、その空間を作り出していきます。

音と言う振動に興味が湧いたのは、瞑想との出逢いが大きかったのですが、言葉も音であるとそのころから捉えるようになりました。

歴史をひも解くと、文字というものは、どうもあとから与えられたもののようで、初めはしゃべり言葉のみで会話をしていたようです。

世界には、多くの言語がありますが、その中で文字を持っていないものも多くあることから、文字とはあとから当てるように作られたということはうなずけることです。

例えば、「やみ」とは、「闇」であり、「病み」であり、もともと同じ意味で使われていたようです。

響きが持つ固有の振動がそもそも固有の特性を持っており、その振動に合った意味を使い、わたしたちは会話をしているのではないだろうか?

そんな思いがわたしにはあります。

大陸は違えど、音で意味が重なる事例は良くあると感じます。

トルコで水のことをsu(スゥ)と呼びますが、日本語では水(スイ)中国では水(スゥエー・シュイ)英語では海のことをseaです。

どこか音の響きに似たものを感じます。

以前記事にしたneverも英語では強い否定を示しますが、日本語の「〜(せ)ねば」も本当は〜したいというこころを打ち消す強い否定になります。

このように音には固有の振動が持つ性質があるように感じられます。

そして言葉に対する興味は、瞑想とヨガ行う中で更に強まっていきました。

ある日の瞑想中、明らかになったことがありました。

 

 

それは、この世界が常に変化しており、

同じように繰り返しているように見えることも、

そう見えるだけで、細かく見た時には、必ず変化している。

ということでした。

変化していました。

全てが流動して、流れながら変わっていました。

体も意識も身を包む空氣も・・全てが流動していました。

そう氣がついたとき、このままでいたい。

ずっと変わらないでいたい。

これが、これこそがわたしなのだから。

これを手放したら、おしまいだ。

そんな思いが伴にいることに氣がつきました。

それは、この生存できている状態を何とか守りたいと言うある種いのちの声のように感じました。

全てが変化し流れる中に身を委ねることは、とても恐ろしく感じました。

さりとて、この世の事実は全てが変化し流動しているということ。

それならばその中に身を委ねてみよう。とゆっくりと身を投げ出すことを許していったとき、「諦める」という言葉が強くこころに入ってきました。

そう、諦めます。

わたしはもう、諦めることにしました。

あとは、よろしくお願いします。

そんな思いでした。

明らかなことは、変化であり、流動でした。

今までを手放し、変化の中に身を委ねることは、諦めであり、明らかなことに対する、降伏でした。

参りました。完全に降伏します。

そんな、こころの呟きと伴に、変化の中へ身を委ねることを許したとき、何とも言えない至福の境地が訪れました。

体からは、全ての力が抜け去ってゆき、空間との隔たりが消えたようでした。

体はただただ嗚咽し、理由のない大きな大きな愛の中に溶け出していくようでした。

幸福とは、このことか。

と全身全霊で思い知らされた出来ごとでした。

変化の摂理の中へ、完全に降伏した時に、完全な幸福が訪れたこと。

あとで、「あきらめ」という文字を調べたところ、語源は「明らめる」となっていました。

明らかにみる。

そうしたとき、自然と今までを手放し諦めてゆく。

そんな思いが、体の中心を通過していったのでした。

氣がつくと、こころは開かれたように軽くなり、胸郭は広がっていました。

今まで感じていた悩みや、苦痛も、摂理への降伏へ至るために用意されていたこの世界の味わいだと感じ、それを体験させてくれた世界に感謝を感じていました。

これがまさに、「開き治る」と言うことなのだと身をもって感じた出来ごとでした。

体験の中に、言葉があり、言葉の世界を生きているような心地でした。

このような経験をもとにして、更に言葉や漢字に興味を抱くようになり、未だに個人的な探究は続いています。

次回は、開き治った体験をもとに、「開く」という言葉の語源へと独自の論点から迫ってみたいと思います。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました☆

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そんな出来ごとを感じた場所。ガンジス川の源流に近いデ・プラヤーグ。

さようなら、深刻さ。

こんにちは。

「わたしに還るyoga」のクラスを開いています、山崎大です。

日増しに暖かくなり、日中は汗ばむような日も増えてきました。

さりとてここ安曇野の朝はやはり氣持ちがいいものです。

鳥のさえずりと、涼しく凛とした空氣が氣持ちを整えてくれます。

世界中の町に滞在しましたが、やはり今時期の安曇野はいいです。氣持ちのよいところです。

一番最近海外へ行ったのは半年前でしたので、もう大分日本の暮らしに慣れてきています。

日本の暮らしに慣れてきて、時々思うことがあります。

日本にいると、何かと深刻になりやすい・・

なにも皆がそうであるとは思いませんが、海外に比べ整った環境を持ちながらも深刻そうな顔つきの方々が多いように感じたのでした。

こんなにもすばらしい環境があり、緑豊かな国、日本。

にもかかわらず、深刻な方が多いのはなぜ・・?

わたし自身もともすれば、深刻になりやすい性質をもっておりましたので、深刻になることは可能です。

ですが、今は深刻さとは距離を置き、疎遠にしています。

ときどき、深刻さの方から距離を縮めようとアプローチしてきますが、あくまでも疎遠にしています。

もう泥沼の間柄になり、わたしの方から以前別れを突きつけた経緯もあり、距離をとっています。

では、どうやって深刻さと距離を置き疎遠にするのか。

そのためには、「深刻さ」とはどういう存在なのかということをきっちりと理解していることが重要になると感じています。

距離をとるためには、距離をとろうとしている存在が何なのかをしっかりと把握することが必要になります。

そして深刻さとは目に見えません。

目に見えないものと距離を取る。

こういう類いのものを見抜いてゆく時に、瞑想が役立つように感じます。

わたし自身が見た「深刻さ」の正体を明らかにし、お読みの方にも「深刻さ」と疎遠になっていただけたらと思っています。

深刻さと伴にいると感じたとき、瞳を閉じてみます。

「ああ、今、深刻に思い詰めているのだな」

と感じてみます。

それが良いでも、悪いでもなく、ただただ感じてみます。

次第に「深刻さ」の親元が顔をのぞかせてきます。

親元は、「まじめさ」でした。

きっと不真面目な人は、深刻にはならないのでしょう。

では、不真面目でいいのかといったら・・それもそれですので、まじめでありたいとは思います。

大切なことは、「真面目は、良くも悪くも作用する。」ということを感じてゆき、何に真面目であるのかを自己決定してゆくことにあると感じます。

言葉は悪いですが、「くそ真面目」という言葉があるように、くそに対して真面目であっては融通が利かず困り者です。

何に真面目であるかということが、とてもとても大切だと感じます。

信じるものに対して真面目。

きっと、これが大切なのでしょう。

今、問題なのは、信じるものが外側から与えられているということです。

「〜すべき。〜せねばならない。」というように、さも当然というかの如く、外側から与えられています。

深刻さの親元は「真面目さ」であり、その真面目さを悪用するのが「〜べき・〜ねば」という考えだと感じます。

こちらに関しては、「ベッキベキの壁・ネバネバのnever」で詳しく綴っていますのでお読みいただけたら幸いです。

盗みとは、盗む「べき」ではないからしないのではなく、盗まれた方の心が痛むからしないのです。

暴力も、人を殴る「べき」ではないからしないのではなく、痛みが分かるからしないのです。

そんな当然のことですが今の時代、ともすると忘れてしまう方が多くいるように感じます。

何かの際に「これはどうするのが正解?」ともしも思うのであれば、注意が必要です。

正解を選ぶことに慣れてしまうと、拳銃で人を見つけたら引き金を引くのが正解だと教えられていたら、その正解を選んでしまう危うさがあることに氣がつく必要があります。

言葉は悪いですが、それがくそ真面目であるということなのだと感じます。

深刻とは、「〜べき・〜ねば」という本来真面目にならなくてよい考えに真面目になってしまっている状況だと思うのです。

本来信じる必要のある「こころ」が置いてきぼりになり、そのこころが苦しんでいるのだと感じます。

「こころ」以外に本来信じるものはないとわたしは感じています。

こころに聞けば、今することがきっと分かります。

深刻さとは、こころが苦しんでいるというサインなのではないでしょうか。

こころには、本当は向かいたい場所があるのです。

それが、「ベキベキの壁」に阻まれ、「ネバネバの糸」にからめ取られようとしているのだと感じます。

そのことに氣がつき、考えのどこに「〜べき」や「〜ねば」があったのか、そしてそれらが外側から与えられた見えない檻であることを見破っていきます。

深刻さの親元である真面目さと、それにくっついている「〜べき・〜ねば」は次第にその姿を明らかにしていきます。

こころに氣づけば氣づくほど、自らに張り付いていた「〜ベキ・〜ねば」が見えてくると感じています。

こころに氣づくためには、瞳を閉じて「今のあるがままを感じてゆくこと」

それが瞑想だと感じています。

今のあるがままを感じ、その感じているものこそが誰の指図も受けず信じるものであるということ。

その時、深刻さの付け入る余地はなく、深刻さはただ立ち去ってゆくのみになると感じています。

深刻さとの距離の取り方を綴りました。

すぐさま効果が出るものではないのかもしれません。

続けるうちに少しずつ、氣がついた時にはすっかりと。そんな道なのかもしれません。

こころを感じる瞑想。

またこちらに綴っていけたらと感じています。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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CDを作っています。

こんにちは。

 

「わたしに還るyoga」のクラスを開いています、山崎大です。

 

 

2週間ほど記事を書いておらず、その間せっせとあることをしておりました。

 

 

その間に季節はすっかり夏にシフトしており、最近は安曇野もとても暑い日が続いています。

 

日中は汗ばむほどの陽氣になりますが、朝晩は凛と涼しく澄み渡っており、世界中で一番氣持ちのよい朝は、この季節の安曇野の朝なのかなと感じています。

 

 

今日も氣持ちのよい空氣が體一杯に吸えること、この世界を今も体験できることに感謝です。

 
さて、冒頭であることをしておりましたと綴り、ややもったいぶったような出だしではありましたが、何よりも先にタイトルがことを伝えておりました。

 

 

そう、今CD制作をしております。

 
瞑想の薬としての恩恵をお伝えしたく、活動していますが、より多くの方に瞑想をお届けできたらとかねてより瞑想CDの制作を実行しよう思っておりましたが、CDで使う音源の著作権の問題で行き詰まり、滞っていたのでした。

 
そんな中、音源に使いたいと思っていた「かむおん」さまに許可を頂けたことと、ヒーリング音楽の大御所である「宮下富実夫」さまの音源をご提供いただけることとなり、瞑想CDの制作が本格化し始めたのでした。

 
とても、ありがたいことです。

ありがとうございます。

 
音源は申し分なく、聴いているだけで細胞分裂が活性化する感覚があります。

 

 

そこにナレーションとして、誘導を入れていく予定です。

 

 

録音したものを聞き返し、何度も書き直しを加え、やっとこれで効果が出ると感じるものが仕上がりました。

 

 

明日がレコーディングです。

 
アイマールレコードさんという松本でCD制作を行っている方に録っていただきます。

 
手にとっていただいた一人ひとりが、一番心地よくリラックスできる場所で、CDを聴いていただける日を目標に、せっせとCD制作に力を注いでいきます。

 

 

写真展をしたり、トークイベントをしたり、本を書いたり、ヨガのクラスを行ったり・・

いろいろしてきましたが、すべては体験を表現すると言う一点が原点で原動力でした。

 

 
今までで一番深く表現できる氣がしており、わくわくしています。

 

 
お手元にお届けするまでには、もうわずかお時間を頂く予定ですが、その間に瞑想の薬としての恩恵を十二分に詰め込もうと思っています。

 

 

明日のレコーディング、どうかうまくいきますよう・・☆

 
今後も完成までの過程をこちらに綴っていけたらと思っています。

 

 

お付き合いいただけます方、どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

クンバカ呼吸法〜続けることで効果があります。

こんにちは。

 

「わたしに還るyoga」のクラスを開いています、山崎大です。

 

クラスでは、いくつかの呼吸法を毎回のように行っています。

呼吸法や瞑想を毎回のように行うことの奥には、「不安や緊張から開放され、この世界をより自由にのびのびと生きる」ことに繋がってゆくと個人的に確信があり、内側が外に表現することを求めているからです。

心配性で精神的にも落ち込みやすく、加えて毎日下痢氣味であったわたしでしたが、現在は以前より心配は少なくなり、落ち込んでもすぐ回復し、日々快便です。

心配事の数と、落ち込みやすさや回復のしやすさ。そして毎日快便かどうか。

 

これらは、実のところかなり連動性があるとわたしは感じています。

 

今回は、同時にそれらを快方へ向かわせる呼吸法の紹介をさせてください。

多くの呼吸法への応用が効き、継続することでの恩恵も多大な「クンバカ呼吸法」を今回は綴っていきたいと思います。

クンバカ呼吸法は、「息を吸い上げて止める」ところに一番の特徴があります。

 

息吸い上げて止めているとき、一番力がこもる場所が横隔膜であり、横隔膜を鍛えてゆくにはとても効果的な呼吸法となります。

 

「息を吸い上げて止める」と同時に「肛門の締め上げ」も行っていきます。

 

肛門の締め上げを行うことで、骨盤を下から支え、息を吸い込みながら横隔膜を下げてゆくことで、腹圧が高まり内臓が圧縮されたような形となります。

 

これは実際にクンバカ呼吸を試し、実感してみてください。

 

クンバカ呼吸を始めた当初は、横隔膜がさがってゆく感覚が掴みにくいかもしれませんが、一月も続けていれば手に取るように分かってくると感じます。

 

息を吸い込み、横隔膜を下げ、肛門を締め上げたときに腹圧が高まっていきます。

 

横隔膜から肛門(骨盤底)まではパワーハウスと呼ばれ、まさにエネルギーが生まれる場所だと感じます。

 

パワーハウスの中心は丹田となると感じており、「丹」とはエネルギーのことであり、「田」は溜る場所と文字の示す通り、お腹が力の出所であることは、言葉からも疑いの余地がありません。

また肛門近隣の筋肉は、仙骨の動きを総括しており、仙骨の位置を整えてゆくためにも肛門の締め上げを続けることは非常に効果的だと感じます。

 

今回詳しくは割愛しますが、仙骨は仙人の骨と書くように、あらゆる骨の中でも神秘に満ちており、その実態は現在も分からないことが多いと言われてはいますが、仙骨は間脳にも直結しており、また大腿部から親指まで仙骨神経叢を基軸として太い神経が通っています。

頭が冴えなかったり、足の指の動きが芳しくなかったりという方は、仙骨を刺激すると快方に向かうと感じます。

その仙骨の動きを総括し、場所を定めてゆく肛門周りの筋肉は意識していて損はありません。

また、肛門は生きている以上、締まっているのが常です。

死んだときにのみ、ゆるむ筋肉です。

つまり、肛門が締まっていることは生きている証。

生きている証を更に締めてゆく。

それは、もっと生きるということであり、生命力を高めてゆくことだ。と言われています。

横隔膜を下げると同時に肛門を締めてゆく。

 

この行為による恩恵はまだまだ続きます。

横隔膜を下げ肛門を締め上げてゆくと、腹圧が高まり、内臓が刺激されます。

内臓は、それぞれが膜で覆われています。

内臓の動きが芳しくない場合、内臓と内臓はそれぞれの膜の間に癒着が生じていると感じます。

腹圧を高め、内臓を刺激し、内臓と内臓の間の膜同士の癒着をはがしてゆくことは、内臓の血流を高めることはもちろん、ナウリ浄化法へ続く道でもあります。

また腸がダイレクトに刺激されることでセロトニンが分泌されます。

セロトニンは、しあわせを感じることと関係の深いホルモンですが、8割りが腸からつくられていると言われています。

また腸は脳と形が似ていることからも、脳と関わりが深いように感じます。

腸が動いているとき、脳は動きが鈍くなり、腸が休んでいるとき、脳は活発に動きます。

食べ物を食べると眠くなり、断食後や空腹時はひらめきが多いことからもうなずけることだと感じます。

腸を刺激し、活発にさせ、良く休んで頂くことは、脳に良いのだと感じます。

また、瞑想は呼吸の深まりと連動して深まってゆくと感じますが、瞑想が深まってゆくとき呼吸が停止しているような状態になることがあります。

瞑想は、死を知るための道でもあるという方もおられますが、完全に意識のみの領域へ入ってゆくためそう言うのかと感じます。

「いしき」から息を引き取ると、「し」となり、息が止まった後の意識は、死の領域へも旅ができるのではないかと言葉からも感じています。

 

瞑想時に息が止まったようになることと、クンバカで意図して息を止めることは全く別物ですが、呼吸を深める横隔膜を育てることのできるクンバカ呼吸法は、瞑想を深めるためにも役立ちます。

ヒマラヤ山中でクンバカを教えてくれた氣功家のチョイさんは、クンバカのことを「オウギ」だとして教えてくれました。

 

「誰もができる。ただし、誰もが3日で忘れてしまう。続けることができたらそれが奥義となる」と教えてくれました。

 

その教えを守り、半年が経ったある日、はっきりとその効果が手に取れる出来ごとへクンバカは導いてくれました。

わたしたちの身の回りには、おかしなものが溢れています。

3日で資格が取れます。50万円。

一週間で身につきます。100万円。

一日で即座に手に入ります。万円・・

という、どうしようもないものが蔓延しています・・

 

そういったものに飛びつくのもこの世界の楽しみの一つなのかもしれませんが、確かなものこそ時間がかかるのだと思いますし、確かなものこそシンプルなのだと個人的には思っています。

 

長々とクンバカ呼吸法の効能を綴りましたが、これからもクンバカを続けて行きたいと感じています。

お金も殆どかかりませんし、続けることで着実に登っていける道だと感じます。

ピンと来た方いらっしゃいましたら是非、日々の中に取り入れてみてください。

伴により自由になる道を歩めたら幸いです。

 

長いにも関わらず、最後までお読みいただけましたこと、感謝申し上げます。

機動戦士ガンダムから、瞑想を綴る。

こんにちは。

「わたしに還るyoga」の、山崎大です。

 

クラスにご参加いただいている方々から、精神面や体の調子が良くなってきたという声を聞くことが多くなって来ました。

 

とてもうれしく、日々の中に瞑想を取り入れて頂けていることに感動しています。

 

大げさかもしれませんが、生きていてよかったと感じます。

 

瞑想とは、
「肉体がこの世界を体験するための入れ物であり、本体が意識であることに氣がつく時間」
とわたしは捉えており、肉体を完全弛緩させることで、意識で存在している状態へ近づけていけるようクラスでは瞑想を誘導しています。

 

社会生活を営んでいれば、目を開いて生きることが常であり、目を閉じて数分を過ごそうものなら即クビになれるという激しさを備えている日本社会。

なんともすてきな所に生まれてきたものだとつくづく思います。

 

 

そんな日本に今こそ瞑想は必須!という確信のもと活動をしています。

 

 

「肉体がこの世界を体験する入れ物であり、本体が意識である」
とさらりと綴ってしまいましたが、肉体が入れ物であるという感覚をより鮮明にイメージする為に、今回は機動戦士ガンダムを例に挙げさせてください。

 

 

ガンダムを例に挙げますが、わたしは大層なガンダム音痴ですので、ガンダムを知らない方も氣兼ねすることなく読み進めて頂けたらと思います。

 

ガンダムにお詳しいガンダムマスターの方は、お手柔らかにお読みいただけたらありがたいです。

 

 

機動戦士ガンダムは、モビルスーツと言う乗り物に人が乗り込んで、ドラマを繰り広げてゆく物語です。

 

わたしは、このモビルスーツがわたしたちの肉体であると感じています。

 


モビルスーツ 左がザク(弱い)右がガンダム(強い)

 

 

モビルスーツにはそれぞれ特徴がありますが、実際に動かすのは乗組員です。

 

 

わたしたちの世界では乗組員が、意識であり、肉体というモビルスーツに意識が乗り込んで動かしています。

 

 

どんな上等なモビルスーツも乗組員がぽんちゃんであれば、大した活躍はできず、あまり芳しくないスーツも乗組員が強力だと活躍できるのだと感じます。

 

 


☝強力な乗組員シャアが乗ったザクがガンダムをやっつける

 

 

恋愛シーンも機動戦士ガンダムに出てくると思いますが、恋愛するのはあくまでも乗組員同士であり、モビルスーツ同士ではありません。

モビルスーツ同士で恋愛していたらちょっと嫌です。

 

 

あくまでも主役は乗組員であり、わたしたちの世界で言えば意識であると思います。

 

 

「肉体がわたし」と思っていらっしゃる方は、モビルスーツの乗組員が熟睡したままか文字通り意識不明状態で操縦している状態だと言えると思います。

 

 

一度モビルスーツのパワーをOFFにし、乗組員として活動してゆくのがわたしたちの世界では瞑想となるのではないかと思うのです。

 

 

ですので、瞑想に入るためには、肉体は完全弛緩(OFF)する必要があります。

 

 

 

乗組員に戻って、本来の任務や役割を確認し、もう一度乗り込んでゆく。

 

 

ガンダムにおいてもこのような事はとても大切で、モビルスーツに乗り続けていては乗組員も参ってしまうでしょう。

 

 

瞑想せず、体調や精神が何だか芳しくないと感じる方、それは弱いのでもなんでもなく仕組みなのだと感じます。

 

 

瞑想をし、意識である本体に戻り本来の任務を思い出し、再び肉体へと乗り込んでゆく・・

 

 

補足ですが、
瞑想をするだけで、意識はクリアになり体の不調は回復に向かっていきます。
脳も活性化し、続けることで不安を感じる扁桃隊は縮小し、直観を司る前頭葉松果体は肥大化し、右脳と左脳のバランスを司る間脳は太くなっていきます。
これらは実験でも証明されていますが、わたし自身も身をもって自身の脳が物理的にも変化していった過程を体験しています。

 

 

一度、本体に戻ることがとても大切なことなのだと感じます。

 

 

ドラクエ5でゴレムスが最後に覚えた最高の回復技も「めいそう」でした。ドラクエは知っていたんだ。すげー。

ゴレムス↑

最終的にガンダムとは無関係なゴレムスまで登場させてしまいました。
そんな中、今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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先日募集を開始した、第4期となる
「スピリチュアル断食合宿」@シャロムヒュッテ

合宿でも瞑想を行います。

断食中は、肉体が休まり五感が次第に研ぎ澄まされていきます。

瞑想がうまくできない。
瞑想の感覚を掴んでみたい。

そんな方は、是非断食合宿での瞑想がオススメです。

研ぎ澄まされた五感を利用し、瞑想の感覚を掴んでみましょう。

第4期「スピリチュアル断食合宿」@シャロムヒュッテ お申し込み

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瞑想を体験してみたいと言う方はこちら↓

「はじめての瞑想〜medicine meditation〜」

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ヨガクラスの交流会報告

こんにちは。

「わたしに還るyoga」のクラスを開いています、山崎大です。

 

GWのまっただ中の今日、こちら安曇野は晴天の中、猛烈な南風が駆け抜けています。

 

 

記憶によると今日は雨予報だったかと思ったのですが、風さんのお陰で大晴天です。

 

お出かけを楽しまれている方々にとって、氣持ちのよい日となるのかな。

清々しい日をどうぞ楽しまれますよう。

 

 

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先日、「たまからyoga」の交流会として「魂と体をつなぐハヤシライス」略して「タマカライス」というイベントを開かせて頂きました。

 

月曜クラスをマネジメントして頂いている着物着付師「equinox」さんと話している際に、「交流会しよう!」と急遽思いつき、数日後に開催となりました。

 

開催まで数日にも関わらず、多くの方にお越し頂け、みなさんで料理したりセッティングしたりと、手作り感満載な空間と料理で、とても楽しいひと時を頂きました。

 

 

みなさんと準備している中で、感じたことがありました。

 

 

「僕がやりたかったことは、きっとこういうものなんだ」

みなさんとやりとりしながら、確かにそう感じていました。

 

 

初めてお逢いする方々が、何かしらの巡り合わせのもと一つの場所に居合わせて。

 

個と個であったものが、出逢い、触れ合いながら、重なりながら、溶合ってゆく。

 

 

初対面のぴりっとした「氣」が流れる瞬間。

 

イベント終了後の滑らかなここちよい「氣」が流れる時間。

 

 

間には、それぞれの「氣」のやり取りがあって、すこしずつすこしずつ溶合って、調和へ向かってゆく。

 

 

調和した後は、とてもとても心地がよくて。

 

それぞれの「氣」がそこではもう繋がっていて。

 

不安は、安心へとその姿を変えている。

 

 

 

そんな時間を、たくさんたくさん作りたい。

 

 

そして、ひとりでも多くの方が警戒することなく、怯えることなく、人と「氣」の交流を楽しんでいただきたい。

 

 

そう感じました。

 

 

「わたしが行ってもいいのかしら?」

 

「場違いだったらどうしよう・・」

 

「変な人って思われたら嫌だな」

 

「嫌われたくない」

 

「無視されたら・・」

 

 

知らない人が居る初めての場所に行くときに、多くの人が抱くようなそんな想い。

 

 

そんなもの、すべてぶち破って、打ち捨てて、「あなたはここにいていいんだ」って心臓を貫くような大声で伝えたい。

 

 

そんな想いが僕にはあります。

 

 

でも、一筋縄じゃいかないんだよね。

 

 

とても人見知りで、人と関わることに臆病で、目もろくに逢わせることができなかった僕には、それがよくよく分かります。

 

 

「場違いだったら・・」
と思うのは、あなたが誰かを「場違いだ」と思うから。

 

 

「変な人って思われたら・・」
と思うのは、あなたが誰かを「変な人」と思うから。

 

 

「嫌われたら・・」
と思うのは、あなたが誰かを「嫌う」から。

 

 

そして、それらの奥には、紛れもなく過去に「傷ついた記憶」が眠っています。

 

 

 

僕たちは「人にどう思われるのか」を氣にします。

 

 

その「どう思われるのか」という目は、紛れもなく、「あなたが他人を見ている目」

 

 

同じ目で、自分自身を見ています。

 

 

目は、過去により作られ、全自動で動きます。

 

目は、全自動に瞬時に、判断しています。

目は、分析し、相手を見定めています。

 

その目を、ゆるめてゆく。

 

その目を、見つめて解いて、奥にある目が作られる元となった記憶へと帰ってゆく。

 

そして、本当のあなた自身の目と繋がってゆく。

 

その過程そのものを癒しと呼び、僕が瞑想と呼んでいるもの。

 

 

大切なのは、「人にどう見られるか」ではなくて、「人をどう見ているか」

 

 

目が変われば、より自由になれる。

自由につながってゆける。

 

 

 

yogaとは、「つなぐ」という意味。

 

 

 

つながりの大切さを知ったのは、分離を体験したから。

 

もう、分離の時代は終わっていい。

 

瞑想もyogaも「自らを知り、自らと繋がり、人と繋がってゆく」その道の上にあるものだと感じます。

 

 

玉ねぎの薄皮をはぎ取るような、氷の塊を徐々に溶かしてゆくような、そんな道なのかもしれません。

 

 

道の上にころがる恩恵は、つながりであり、感動であり、充実であり、仕合わせ。

 

 

繋がって、仕事を合わせ、しあわせ、充実、感動。

 

 

多くの方と伴に歩むことができたらそれはより最高の道となる。

そう感じています。

 

「魂と体をつなぐハヤシライス」
とてもとてもすてきな時間を頂きました。

今後も繋がってゆけるイベントを発信できたらと思います。

 

そして一歩一歩自身と向き合い自身と繋がってゆく「瞑想・yoga」もより確かなものとして発信します。

どうぞ、今後ともよろしくお願いいたします。

 

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

ヒマラヤンエピソード・実感する奥義

こんにちは。

わたしに還るyogaのクラスを開いています、山崎大です。

 

 

前回のブログで、様々なことを教えて頂いた氣功家の「チョイさん」について綴りました。

 

 

氣功家のチョイさんが「ディスイズ、オウギ」とお伝えしてくれた呼吸法を最近「ナウリ浄化法」のクラスで扱っていました。

 

氣功家のチョイさんがなぜ、奥義と言う日本語を知っていたのかは兎も角として、個人的にもとても効果を感じている、その呼吸法を今日はこちらに表現させて頂こうと思います。

 

 

よろしくお願いいたします。

 

 

では、いきます。

 

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師匠であるチョイさんは、韓国で20年程氣功を学んでいたようです。

 

 

そのチョイさんが、奥義だといい、さまざまな事柄の中で特に重要だと教えてくれた呼吸法が「クンバカ呼吸法」となります。

 

チョイさん自身は、「クンバカ呼吸法」という単語は使いませんでしたが、僕がその後様々な呼吸法を調べてゆくうちに、チョイさんがお伝えしてくれたものが、インドのヨガに伝わっている「クンバカ呼吸法」であることが分かりました。

 

 

蛇足ですが、チョイさんのお家には、「ウジャイさん」と「ナウリさん」というおばさんがチョイさんの奥様と伴にくらしており、毎日の様に僕は彼女たちにお世話になっていました。

 

後々、呼吸法を探究してゆく中で、「ウジャイ呼吸法」や「ナウリ呼吸法(浄化法)」と出逢い習得してゆくこととなっていきます。

 

 

おかしな話のようですが、人の名前や土地の名前を初め、出逢う人の言葉、行動、そういったものが大いに進む道の導きとなり、瞑想修行の旅を続けていきました。

 

 

話しても一笑されてしまうような導きですが、確かな手応えは日を増すごとに自身の中に積まれてゆき、人知れず僕はこのような日常に散りばめられたヒントを重要なガイドと捉えていくようになっていきます。

 

 

まるで、見えない天使のような何かが、僕の日々にさりげないガイドをそっと置いてくれているような感覚です。

 

 

 

話をクンバカ呼吸法に戻します。

 

チョイさんがオウギと呼ぶクンバカ呼吸法、この呼吸は、普段意識しない部分を大いに活用します。

 

 

まず、「息を止める」ことを使います。

 

 

意識的に「息を止める」ことができるのは、動物の中で人間だけのようで、「息を大きく吸い込んで止める」時に、呼吸筋である横隔膜は最大の緊張状態となります。

 

力がめいっぱいこもっている状態です。

 

ですので、横隔膜を鍛えるにはとても適切な状態です。

 

 

次に、息を止めた状態を保ちながら、肛門を締め上げていきます。

 

 

肛門が絞まっていることは、ヨガの世界で「生きている証」と言われます。

 

 

生き物は生きている間、ずっと校門は閉まっており、死んだ時、完全にゆるむようです。

 

 

「生きている証」である肛門の締まりをより強化することは、「もっと生きる!」ことであり、「生命力を上昇させる」ことだとされています。

 

 

そして、横隔膜を使い息を吸い込み、お腹が膨らんだ状態で肛門を締め上げてゆくと、腹圧が高まり、様々な効能が姿を現してゆきます。

 

 

チョイさんは言っていました。

 

「ティスイズ、オウギ!」

「オウギイズ、ベッリイーー、シンプル!」

「エブリワン、ポッシブル!」

「バアット!!エブリワン、フォゲット、ウィズインスリーデイズ・・」

「ソー、ティスイズ、オウギ!」

 

 

簡単に訳すと、

「奥義はとても簡単で、誰でもできる。けれど、誰もが3日で忘れてしまう。だから、奥義なのだよ。」

となります。

 

「バアット!!」と特に強調するあまり、つばを飛ばしてきたチョイさんを可愛らしく思い出します。

 

教えてもらって3日目で僕も忘れかけましたが、その都度チョイさんが指でおしりの穴を閉めているジェスチャーをしてくれたので、続けることができました。

 

「ダイ san、グッモーニン」

「ダイ san、グッナイ」

と挨拶に交え、おしりの穴が絞まっているか?とジェスチャーを送り続けてくれたチョイさんには、本当に頭が上がりません。

 

 

僕を知る方はお氣づきのように、僕は元々線が細く、どちらかと言えば虚弱体質でした。

お察し頂いた通り、何かあればすぐに下痢をしてしまう、神経過敏な面がありました。

緊張しやすく、動揺しやすい性格でした。

そんな自分の側面をどうにかしたくて旅に出たという部分も少なからずありました。

 

 

クンバカ呼吸を続けて6ヶ月あたりから、下痢とは一切縁が無くなりました。

 

そればかりか、インドの生水を飲んでも平氣になるほど、内臓が変化し、これには自分でも驚いています。

 

人前に立つ日の前は、下痢に苦しみ、緊張して声がうわずることも多かったことがかつてはありましたが、今では適度な緊張を心地よく楽しめています。

 

もちろん、全く緊張しない訳でも驚かない訳でもなく、人と比べてどうこう言えることはないのですが、かつての自分とは比べ物にならない程の恩恵を確かに頂いている実感があります。

 

 

また、氣分が安定しました。

 

もちろんバイオリズムの中で落ち込む時もあるのですが、長くても半日で切り替わり回復します。

かつては一週間ほど一つのことが氣になり引きずっていたことを思うとこちらも驚く程の変化です。

 

 

クンバカが日常にとけ込み、一部分となりながらも今も時々忘れています 笑

皆さんと伴に、クンバカ呼吸法を続けてゆくことでの恩恵を伴にできたら嬉しいです。
チョイさんも、きっと嬉しいです。

 

最後に、クンバカ呼吸法のやり方を動画として張っておきます。

よろしければ、動画と伴に呼吸してみてください。

慣れてきたら、手を当てずとも意識だけで、いつでもどこでもやって頂けたらと思います。

 

こちらを続けることは、「ナウリ浄化法」への道にも繋がっていきます。

「ナウリ浄化法」の習得を目指されている方には、とくにお勧めしたいものとなります。

どうぞ、よろしくお願いいたします。

 

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

ヒマラヤンエピソード「蛾と我とエゴとエコの話」

こんにちは。

わたしに還るyogaのクラスを開いています、山崎大です。

大規模な熊本地震が起こり、今でも余震が続く日々が続いていると聞きます。

現場におられる方々とその家族、友人のみなさまに一日でも早い安らぎが訪れることを願います。

桜が散り、様々な植物が芽吹き出す季節となりました。

ここ安曇野は、新緑に覆われ新しいエネルギーで沸き返っています。

タンポポオオイヌノフグリヒメオドリコソウなどの春の小花が咲き乱れ、穏やかな陽氣に包まれています。

長期滞在したインドから帰国し、瞑想クラスを安曇野で立ち上げたのが、丁度去年の今頃でした。

回を重ねるにつれて、魂が本来表現したかったことに近づいている実感があり、伝えようとすることで自身の理会も深まることを感じています。

 

ご参加いただいている方々のお陰で、表現することが出来ています。

 

インドを始め、その他の国々で得た体験が行き場を求めて内側で大きな渦を描いており、表現として出てゆくことでわたし自身の身が軽くなる感覚があります。

 

いつも、ありがとうございます。

少しでも日常に役立つ力となるものを表現できるよう、今後も成長を続けます。

 

よろしくお願いいたします。

懐かしく思いを回想しながら、ヒマヤラで瞑想をしていたころの日記を読み返してみました。

 

当時、氣功家の方のお家に居候しながら、朝から晩まで修行三昧の日々を過ごしていました。

とても贅沢な時間を頂いていたものだとつくづく思います。

そんなある日、おもしろいメッセージがこころの中に流れ込んできたことがありました。

今日はその体験を綴りシェアさせて頂けたらと思います。

「我・エゴ」というものがなぜ、この世界に生まれたのか。

そんな問いを内側で発した時のことだったと記憶しています。

曇天のもと、ある小山の頂きで瞑想していました。

瞳を閉じ、結跏趺坐(あぐら)をとり、耳を澄ませていました。

上空で雲が唸っていました。

 

羽虫が耳元を通り過ぎていきました。

 

蟻が首筋を駆け上がり、噛み付いていました。

 

ヒルと思われる何かが足首をゆっくりと突き刺していました。

 

「首の蟻を払い落とせ」

「足首をすぐさま確認するんだ」

 

生存本能が声を上げていました。

 

足首の痛みを見つめました。

痛みは、普段認識している「痛み」から徐々にその姿を変えていきました。

痛みは、チリチリと細かく揺れうごきながら位置を変え、移動していました。

振動でした。

振動を、足首の皮膚が「痛み」として捉えていました。

 

口の中に何か、味を感じました。

味は、微細な振動でした。

微細な振動を、舌が味として認識していました。

そして、その認識すらも、もっと微細な振動だと氣がついたとき、

鳥のさえずる音も、這い回る蟻も、次第にすべては振動へとその姿を変えていきました。

全てが空間の中を、振動していました。

痛みも、音も、動きも、生も、認識も、全てが振動として存在している世界へ入っていったとき、わたしと言う隔たりは消えていました。

全てがただ振動し、全体で一つでした。

「全てが一つであるこの世界で、なぜ、我・エゴが生まれたのか」

そう問いかけたとき、雪崩の様に迫ってくるメッセージがありました。

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「人は、この世界を理解したかった。分かりたかった。」

「分けることで、分かろうとした。」

これは、蟻。
これは、ヒル。
これは、植物。
あれは、太陽。
これが、痛み。

 

「呼び名を与え、ひとつ一つを分けていった。呼び名を与え、ひとつ一つ分かっていった。」

 

「そして、あらゆるものと切り分け、最後に残ったのが「我」だった。」

我、あり。

「我」という文字は、左がノコギリを示し、右が戈(ほこ)で出来る

 

ノコギリと戈で切り分けて、分けて、残ったのが「我」

両手に、ノコギリと戈を持っている姿。

「我」は分ける。分かろうとするが故に。

 

「我」は分離してしまった。

 

世界から分離した「我」は、本当は一つであった世界と自分とが別々のものだと感じる様になった。

「我」は身を守ろうとする。自分だけ安全であれば良いと考える。

だから、両手に武器を持ち、自分以外を切り分け分別し、時には攻撃する「がーー!!!」と。

我の別名を「エゴ」と呼ぶ。

こちらにも、濁点として2つの武器がついている。

2つの武器からなる「我」は、武器を手放したらその姿を消し、「エゴ」の武器を手放せば、それはまた再び自然と一つの「エコ」となる。

今、人間の「我・エゴ」が強くなっている。

 

我が身だけ安全であれば良いと言う考えが、あらゆる問題の根となっている。

 

この根を、断ちなさい。

 

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後半に、ダジャレが散在しており、とても真面目で間違いないことのようで、どこか間の抜けたメッセージでした。

 

山から戻り、居候している家に戻るときに、氣功家の先生が僕を呼び止めました。

「ダイsan、カミーング!!ルック、ディース!」

指差す先には・・

 

「エクストラへヴィーな蛾」が佇んでいました・・

 

メッセージは、こころの中だけに留まらず、視界の先にまで届いてきていました・・

 

一瞬頭がぐらつく感覚を覚えながらも、今回のメッセージを胸に刻み、自身の「我・エゴ」と向き合う瞑想を再開したのでした。

 

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

自然の力は、今この瞬間も、癒そうとしている。

こんにちは。
〈わたしに還るyoga〉のクラスを開いています、山崎大です。

初めに、地震被害に遭われた方、そのご家族、親しい方々へご冥福をお祈り申し上げます。

未だ余震が続き、不安と伴にお過ごしの方々が多くいらっしゃるかと思います。

一日も早く安心の日々が始まってゆくことを重ねてお祈り申し上げます。

 

 

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安曇野は、さくら満開を迎え、加えて大晴天。

昨日は一番長くお付き合いのある安曇野クラスの皆さんと、地元の光城山へ「お花見ヨガ」をしてきました。

 

自力で山を踏みしめ、芽吹いた草花から湧き出る氣を吸い込み、さくらと上空に広がる晴天に包まれている時間は、内側のいのちが目覚める絶好の機会となりました。

 

「お花見ヨガ」だけに関わらず、「自然への中へお出かけヨガ」と題して、これからも折を見つけて外へ出かけていきたいと思う一日となりました。

 

「お花見ヨガ」などと言っていると、全米ヨガアライアンスなど権威ある場所から資格を取得した方々から叱責されそうですが、お花見はれっきとしたヨガだと個人的には思っています。

 

晴天で花咲き誇る季節に、室内で一様に決まった姿勢をとっていることは、自然の立場から見ると不自然だと感じます。

 

どこから見ても100%自然からでき上がっている体を持って生まれ、口に入れるものも出てゆくものも100%自然である人間であれば、自然の中で自然のままに振る舞うことが良いと思うのです。

 

 

「自然の中で、自然のままに振る舞う」これが出来たのであれば、人間の持っているあらゆる病氣や問題は根こそぎ解消されてゆくと感じています。

 

大げさでなく、とても真剣にそう感じています。

 

ですので、ここから先はじっくり書いていこうと思います。

 

 

「自然の中で、自然のままに振る舞う」

 

 

「自然の中で」は、そのまま誰もが大差なく共通に思い描くことが出来るシーンだと思います。

 

では、「自然のままに振る舞う」とはどういったことなのか。
ここが重要な所です。

 

まず始めに、わたしたちは「自然のままに振る舞って」いません。

 

あらゆるルールや制限の中を生きており、言葉も行動も服装も髪型も、制限の中で決められた中から選んでいます。

怒りは当然の様に制限され、泣くことも、大笑いすることも、場所をわきまえなければなりません。

 

わたしたちの行動は、自然の立場から見たときに「不自然」であるということが前提としてあります。

 

 

花は、咲きたいときに咲きます。

人間が立ち止まらずとも芳香を放ち、もっともっとと言われようが、時が来たら枯れていきます。

自然の中で、自然のままに振る舞っています。

 

 

人間は、どう見られるかを氣にして行動を考えます。

どんな反応があるのかを考えて言葉を話します。

きれいって言ってもらえるような服装を選びます。

 

 

そのひとつ一つが、内側の自然から自らを切り離し、外側の評価を得ることに価値を見いだすサイクルを作り上げてゆきます。

 

 

そして不自然へと向かってゆきます。

 

その先に、体のコワバリやコリが顔を出し、病氣が生まれてゆくのだと感じています。

 

「病」とは悪い癖という意味を持つ漢字です。

 

病に見舞われたとき、それは「本当の自分、自然と離れてしまっているよ。」というメッセージなのだと感じます。

 

 

「自然のままに振る舞う」

 

 

もし、不自然を続けてきて、急に「自然のままに振る舞う」をしたとしたら、「咆哮し、嗚咽し、身もだえる様にめちゃくちゃな動き」をすると感じます。

もしくは、それらが同時に出ると思います。

僕自身は、瞑想中のある日それが起こり、何日も続きました。

 

 

それは、体の中に溜り込んだ怒り、悲しみ、やり場の無い思いたちが、表現として出てゆく場所を求めており、感じたものは表現されることが自然であり、溜め込まれたものも吐き出されることが自然だからだと感じます。

 

「いいや、僕は怒りなんて無いよ。全く感じていないもの」
と言う方もいるかもしれません。

誤解を恐れずに言うと、感じ取れていないだけです。

 

幼少より我慢を重ね、分厚い膜の下へと封じ込めてきたのです。

 

我慢している状況に耐えることは苦痛です。

苦痛が続くことを生存本能は嫌がります。

 

本能の働きにより、意識の深い部分へと沈められ、普段感知できない様に、それが当たり前のような状態になっています。

 

不自然を続け、不自然でいることに慣れ、本来の自分が本当に感じていることや自然な振る舞いというものを置き去りにしているのが多くに共通する現状であると感じます。

 

内側を目覚めさせてゆくこと。

 

そのためには、外側を取り去ってゆくことです。

外側とは、他者からの評価であり、ルール・制限であり、「〜するべき」で表される多くのことです。

まるで人間を囲い込む檻のようなそれらを引きはがし壊し去り、本当の自分自身を取り戻してゆくことが健康で活き活きと生きる上で大切なことなのだと感じています。

 

一見、動物的でおかしな動きをクラスでは取り入れています。

それは、評価や制限を壊してゆく為に役に立ち、自然のいのちとして生きる本当のエネルギーへのアクセスを可能にすると感じています。

 

ひとたび自然のいのちであるエネルギーへアクセスすれば、溜め込まれた怒りや悲しみ、言葉にできない感情たちは、排出へ向かっていきます。

それが、自然の働きだからです。

 

コリやコワバリも、自然のいのちは今この瞬間も癒し解こうとしています。

 

流れる自然の力を制限しているのは、紛れもなく自身の思考の制限です。

 

自分が自分を縛っている。

 

その制限を解くことが出来るのも、ご自身に他なりません。

 

大自然への全幅の信頼のもと、コントロールを手放し降伏してゆく。

 

そこから先、幸福の道が始まるのだと感じています。

 

身に起こる全てはお任せ状態。

 

 

体は咆哮を始め、嗚咽し、身もだえます。

 

 

自然の排出運動が目覚めてゆきます。

 

自然が目覚めたら、そこから先は自動操縦。

 

コリ・コワバリや病は消えてゆきます。

 

 

クラスでは、じっくりと時間をかけ排出運動へ向かっていきます。

制限やルールをひも解きながら、過去をひも解きながら、コントロールを手放してゆく道を進んでいきます。

 

僕自身もひとりの練習者として、その道を歩んでいます。

 

伴に開放と大健康への道を歩む同志がいることを願っています。

 

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

今後とも、どうぞ宜しくお願いいたします。