機動戦士ガンダムから、瞑想を綴る。

こんにちは。

「わたしに還るyoga」の、山崎大です。

 

クラスにご参加いただいている方々から、精神面や体の調子が良くなってきたという声を聞くことが多くなって来ました。

 

とてもうれしく、日々の中に瞑想を取り入れて頂けていることに感動しています。

 

大げさかもしれませんが、生きていてよかったと感じます。

 

瞑想とは、
「肉体がこの世界を体験するための入れ物であり、本体が意識であることに氣がつく時間」
とわたしは捉えており、肉体を完全弛緩させることで、意識で存在している状態へ近づけていけるようクラスでは瞑想を誘導しています。

 

社会生活を営んでいれば、目を開いて生きることが常であり、目を閉じて数分を過ごそうものなら即クビになれるという激しさを備えている日本社会。

なんともすてきな所に生まれてきたものだとつくづく思います。

 

 

そんな日本に今こそ瞑想は必須!という確信のもと活動をしています。

 

 

「肉体がこの世界を体験する入れ物であり、本体が意識である」
とさらりと綴ってしまいましたが、肉体が入れ物であるという感覚をより鮮明にイメージする為に、今回は機動戦士ガンダムを例に挙げさせてください。

 

 

ガンダムを例に挙げますが、わたしは大層なガンダム音痴ですので、ガンダムを知らない方も氣兼ねすることなく読み進めて頂けたらと思います。

 

ガンダムにお詳しいガンダムマスターの方は、お手柔らかにお読みいただけたらありがたいです。

 

 

機動戦士ガンダムは、モビルスーツと言う乗り物に人が乗り込んで、ドラマを繰り広げてゆく物語です。

 

わたしは、このモビルスーツがわたしたちの肉体であると感じています。

 


モビルスーツ 左がザク(弱い)右がガンダム(強い)

 

 

モビルスーツにはそれぞれ特徴がありますが、実際に動かすのは乗組員です。

 

 

わたしたちの世界では乗組員が、意識であり、肉体というモビルスーツに意識が乗り込んで動かしています。

 

 

どんな上等なモビルスーツも乗組員がぽんちゃんであれば、大した活躍はできず、あまり芳しくないスーツも乗組員が強力だと活躍できるのだと感じます。

 

 


☝強力な乗組員シャアが乗ったザクがガンダムをやっつける

 

 

恋愛シーンも機動戦士ガンダムに出てくると思いますが、恋愛するのはあくまでも乗組員同士であり、モビルスーツ同士ではありません。

モビルスーツ同士で恋愛していたらちょっと嫌です。

 

 

あくまでも主役は乗組員であり、わたしたちの世界で言えば意識であると思います。

 

 

「肉体がわたし」と思っていらっしゃる方は、モビルスーツの乗組員が熟睡したままか文字通り意識不明状態で操縦している状態だと言えると思います。

 

 

一度モビルスーツのパワーをOFFにし、乗組員として活動してゆくのがわたしたちの世界では瞑想となるのではないかと思うのです。

 

 

ですので、瞑想に入るためには、肉体は完全弛緩(OFF)する必要があります。

 

 

 

乗組員に戻って、本来の任務や役割を確認し、もう一度乗り込んでゆく。

 

 

ガンダムにおいてもこのような事はとても大切で、モビルスーツに乗り続けていては乗組員も参ってしまうでしょう。

 

 

瞑想せず、体調や精神が何だか芳しくないと感じる方、それは弱いのでもなんでもなく仕組みなのだと感じます。

 

 

瞑想をし、意識である本体に戻り本来の任務を思い出し、再び肉体へと乗り込んでゆく・・

 

 

補足ですが、
瞑想をするだけで、意識はクリアになり体の不調は回復に向かっていきます。
脳も活性化し、続けることで不安を感じる扁桃隊は縮小し、直観を司る前頭葉松果体は肥大化し、右脳と左脳のバランスを司る間脳は太くなっていきます。
これらは実験でも証明されていますが、わたし自身も身をもって自身の脳が物理的にも変化していった過程を体験しています。

 

 

一度、本体に戻ることがとても大切なことなのだと感じます。

 

 

ドラクエ5でゴレムスが最後に覚えた最高の回復技も「めいそう」でした。ドラクエは知っていたんだ。すげー。

ゴレムス↑

最終的にガンダムとは無関係なゴレムスまで登場させてしまいました。
そんな中、今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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先日募集を開始した、第4期となる
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断食中は、肉体が休まり五感が次第に研ぎ澄まされていきます。

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そんな方は、是非断食合宿での瞑想がオススメです。

研ぎ澄まされた五感を利用し、瞑想の感覚を掴んでみましょう。

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ヨガクラスの交流会報告

こんにちは。

「わたしに還るyoga」のクラスを開いています、山崎大です。

 

GWのまっただ中の今日、こちら安曇野は晴天の中、猛烈な南風が駆け抜けています。

 

 

記憶によると今日は雨予報だったかと思ったのですが、風さんのお陰で大晴天です。

 

お出かけを楽しまれている方々にとって、氣持ちのよい日となるのかな。

清々しい日をどうぞ楽しまれますよう。

 

 

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先日、「たまからyoga」の交流会として「魂と体をつなぐハヤシライス」略して「タマカライス」というイベントを開かせて頂きました。

 

月曜クラスをマネジメントして頂いている着物着付師「equinox」さんと話している際に、「交流会しよう!」と急遽思いつき、数日後に開催となりました。

 

開催まで数日にも関わらず、多くの方にお越し頂け、みなさんで料理したりセッティングしたりと、手作り感満載な空間と料理で、とても楽しいひと時を頂きました。

 

 

みなさんと準備している中で、感じたことがありました。

 

 

「僕がやりたかったことは、きっとこういうものなんだ」

みなさんとやりとりしながら、確かにそう感じていました。

 

 

初めてお逢いする方々が、何かしらの巡り合わせのもと一つの場所に居合わせて。

 

個と個であったものが、出逢い、触れ合いながら、重なりながら、溶合ってゆく。

 

 

初対面のぴりっとした「氣」が流れる瞬間。

 

イベント終了後の滑らかなここちよい「氣」が流れる時間。

 

 

間には、それぞれの「氣」のやり取りがあって、すこしずつすこしずつ溶合って、調和へ向かってゆく。

 

 

調和した後は、とてもとても心地がよくて。

 

それぞれの「氣」がそこではもう繋がっていて。

 

不安は、安心へとその姿を変えている。

 

 

 

そんな時間を、たくさんたくさん作りたい。

 

 

そして、ひとりでも多くの方が警戒することなく、怯えることなく、人と「氣」の交流を楽しんでいただきたい。

 

 

そう感じました。

 

 

「わたしが行ってもいいのかしら?」

 

「場違いだったらどうしよう・・」

 

「変な人って思われたら嫌だな」

 

「嫌われたくない」

 

「無視されたら・・」

 

 

知らない人が居る初めての場所に行くときに、多くの人が抱くようなそんな想い。

 

 

そんなもの、すべてぶち破って、打ち捨てて、「あなたはここにいていいんだ」って心臓を貫くような大声で伝えたい。

 

 

そんな想いが僕にはあります。

 

 

でも、一筋縄じゃいかないんだよね。

 

 

とても人見知りで、人と関わることに臆病で、目もろくに逢わせることができなかった僕には、それがよくよく分かります。

 

 

「場違いだったら・・」
と思うのは、あなたが誰かを「場違いだ」と思うから。

 

 

「変な人って思われたら・・」
と思うのは、あなたが誰かを「変な人」と思うから。

 

 

「嫌われたら・・」
と思うのは、あなたが誰かを「嫌う」から。

 

 

そして、それらの奥には、紛れもなく過去に「傷ついた記憶」が眠っています。

 

 

 

僕たちは「人にどう思われるのか」を氣にします。

 

 

その「どう思われるのか」という目は、紛れもなく、「あなたが他人を見ている目」

 

 

同じ目で、自分自身を見ています。

 

 

目は、過去により作られ、全自動で動きます。

 

目は、全自動に瞬時に、判断しています。

目は、分析し、相手を見定めています。

 

その目を、ゆるめてゆく。

 

その目を、見つめて解いて、奥にある目が作られる元となった記憶へと帰ってゆく。

 

そして、本当のあなた自身の目と繋がってゆく。

 

その過程そのものを癒しと呼び、僕が瞑想と呼んでいるもの。

 

 

大切なのは、「人にどう見られるか」ではなくて、「人をどう見ているか」

 

 

目が変われば、より自由になれる。

自由につながってゆける。

 

 

 

yogaとは、「つなぐ」という意味。

 

 

 

つながりの大切さを知ったのは、分離を体験したから。

 

もう、分離の時代は終わっていい。

 

瞑想もyogaも「自らを知り、自らと繋がり、人と繋がってゆく」その道の上にあるものだと感じます。

 

 

玉ねぎの薄皮をはぎ取るような、氷の塊を徐々に溶かしてゆくような、そんな道なのかもしれません。

 

 

道の上にころがる恩恵は、つながりであり、感動であり、充実であり、仕合わせ。

 

 

繋がって、仕事を合わせ、しあわせ、充実、感動。

 

 

多くの方と伴に歩むことができたらそれはより最高の道となる。

そう感じています。

 

「魂と体をつなぐハヤシライス」
とてもとてもすてきな時間を頂きました。

今後も繋がってゆけるイベントを発信できたらと思います。

 

そして一歩一歩自身と向き合い自身と繋がってゆく「瞑想・yoga」もより確かなものとして発信します。

どうぞ、今後ともよろしくお願いいたします。

 

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

ヒマラヤンエピソード・実感する奥義

こんにちは。

わたしに還るyogaのクラスを開いています、山崎大です。

 

 

前回のブログで、様々なことを教えて頂いた氣功家の「チョイさん」について綴りました。

 

 

氣功家のチョイさんが「ディスイズ、オウギ」とお伝えしてくれた呼吸法を最近「ナウリ浄化法」のクラスで扱っていました。

 

氣功家のチョイさんがなぜ、奥義と言う日本語を知っていたのかは兎も角として、個人的にもとても効果を感じている、その呼吸法を今日はこちらに表現させて頂こうと思います。

 

 

よろしくお願いいたします。

 

 

では、いきます。

 

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師匠であるチョイさんは、韓国で20年程氣功を学んでいたようです。

 

 

そのチョイさんが、奥義だといい、さまざまな事柄の中で特に重要だと教えてくれた呼吸法が「クンバカ呼吸法」となります。

 

チョイさん自身は、「クンバカ呼吸法」という単語は使いませんでしたが、僕がその後様々な呼吸法を調べてゆくうちに、チョイさんがお伝えしてくれたものが、インドのヨガに伝わっている「クンバカ呼吸法」であることが分かりました。

 

 

蛇足ですが、チョイさんのお家には、「ウジャイさん」と「ナウリさん」というおばさんがチョイさんの奥様と伴にくらしており、毎日の様に僕は彼女たちにお世話になっていました。

 

後々、呼吸法を探究してゆく中で、「ウジャイ呼吸法」や「ナウリ呼吸法(浄化法)」と出逢い習得してゆくこととなっていきます。

 

 

おかしな話のようですが、人の名前や土地の名前を初め、出逢う人の言葉、行動、そういったものが大いに進む道の導きとなり、瞑想修行の旅を続けていきました。

 

 

話しても一笑されてしまうような導きですが、確かな手応えは日を増すごとに自身の中に積まれてゆき、人知れず僕はこのような日常に散りばめられたヒントを重要なガイドと捉えていくようになっていきます。

 

 

まるで、見えない天使のような何かが、僕の日々にさりげないガイドをそっと置いてくれているような感覚です。

 

 

 

話をクンバカ呼吸法に戻します。

 

チョイさんがオウギと呼ぶクンバカ呼吸法、この呼吸は、普段意識しない部分を大いに活用します。

 

 

まず、「息を止める」ことを使います。

 

 

意識的に「息を止める」ことができるのは、動物の中で人間だけのようで、「息を大きく吸い込んで止める」時に、呼吸筋である横隔膜は最大の緊張状態となります。

 

力がめいっぱいこもっている状態です。

 

ですので、横隔膜を鍛えるにはとても適切な状態です。

 

 

次に、息を止めた状態を保ちながら、肛門を締め上げていきます。

 

 

肛門が絞まっていることは、ヨガの世界で「生きている証」と言われます。

 

 

生き物は生きている間、ずっと校門は閉まっており、死んだ時、完全にゆるむようです。

 

 

「生きている証」である肛門の締まりをより強化することは、「もっと生きる!」ことであり、「生命力を上昇させる」ことだとされています。

 

 

そして、横隔膜を使い息を吸い込み、お腹が膨らんだ状態で肛門を締め上げてゆくと、腹圧が高まり、様々な効能が姿を現してゆきます。

 

 

チョイさんは言っていました。

 

「ティスイズ、オウギ!」

「オウギイズ、ベッリイーー、シンプル!」

「エブリワン、ポッシブル!」

「バアット!!エブリワン、フォゲット、ウィズインスリーデイズ・・」

「ソー、ティスイズ、オウギ!」

 

 

簡単に訳すと、

「奥義はとても簡単で、誰でもできる。けれど、誰もが3日で忘れてしまう。だから、奥義なのだよ。」

となります。

 

「バアット!!」と特に強調するあまり、つばを飛ばしてきたチョイさんを可愛らしく思い出します。

 

教えてもらって3日目で僕も忘れかけましたが、その都度チョイさんが指でおしりの穴を閉めているジェスチャーをしてくれたので、続けることができました。

 

「ダイ san、グッモーニン」

「ダイ san、グッナイ」

と挨拶に交え、おしりの穴が絞まっているか?とジェスチャーを送り続けてくれたチョイさんには、本当に頭が上がりません。

 

 

僕を知る方はお氣づきのように、僕は元々線が細く、どちらかと言えば虚弱体質でした。

お察し頂いた通り、何かあればすぐに下痢をしてしまう、神経過敏な面がありました。

緊張しやすく、動揺しやすい性格でした。

そんな自分の側面をどうにかしたくて旅に出たという部分も少なからずありました。

 

 

クンバカ呼吸を続けて6ヶ月あたりから、下痢とは一切縁が無くなりました。

 

そればかりか、インドの生水を飲んでも平氣になるほど、内臓が変化し、これには自分でも驚いています。

 

人前に立つ日の前は、下痢に苦しみ、緊張して声がうわずることも多かったことがかつてはありましたが、今では適度な緊張を心地よく楽しめています。

 

もちろん、全く緊張しない訳でも驚かない訳でもなく、人と比べてどうこう言えることはないのですが、かつての自分とは比べ物にならない程の恩恵を確かに頂いている実感があります。

 

 

また、氣分が安定しました。

 

もちろんバイオリズムの中で落ち込む時もあるのですが、長くても半日で切り替わり回復します。

かつては一週間ほど一つのことが氣になり引きずっていたことを思うとこちらも驚く程の変化です。

 

 

クンバカが日常にとけ込み、一部分となりながらも今も時々忘れています 笑

皆さんと伴に、クンバカ呼吸法を続けてゆくことでの恩恵を伴にできたら嬉しいです。
チョイさんも、きっと嬉しいです。

 

最後に、クンバカ呼吸法のやり方を動画として張っておきます。

よろしければ、動画と伴に呼吸してみてください。

慣れてきたら、手を当てずとも意識だけで、いつでもどこでもやって頂けたらと思います。

 

こちらを続けることは、「ナウリ浄化法」への道にも繋がっていきます。

「ナウリ浄化法」の習得を目指されている方には、とくにお勧めしたいものとなります。

どうぞ、よろしくお願いいたします。

 

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

ヒマラヤンエピソード「蛾と我とエゴとエコの話」

こんにちは。

わたしに還るyogaのクラスを開いています、山崎大です。

大規模な熊本地震が起こり、今でも余震が続く日々が続いていると聞きます。

現場におられる方々とその家族、友人のみなさまに一日でも早い安らぎが訪れることを願います。

桜が散り、様々な植物が芽吹き出す季節となりました。

ここ安曇野は、新緑に覆われ新しいエネルギーで沸き返っています。

タンポポオオイヌノフグリヒメオドリコソウなどの春の小花が咲き乱れ、穏やかな陽氣に包まれています。

長期滞在したインドから帰国し、瞑想クラスを安曇野で立ち上げたのが、丁度去年の今頃でした。

回を重ねるにつれて、魂が本来表現したかったことに近づいている実感があり、伝えようとすることで自身の理会も深まることを感じています。

 

ご参加いただいている方々のお陰で、表現することが出来ています。

 

インドを始め、その他の国々で得た体験が行き場を求めて内側で大きな渦を描いており、表現として出てゆくことでわたし自身の身が軽くなる感覚があります。

 

いつも、ありがとうございます。

少しでも日常に役立つ力となるものを表現できるよう、今後も成長を続けます。

 

よろしくお願いいたします。

懐かしく思いを回想しながら、ヒマヤラで瞑想をしていたころの日記を読み返してみました。

 

当時、氣功家の方のお家に居候しながら、朝から晩まで修行三昧の日々を過ごしていました。

とても贅沢な時間を頂いていたものだとつくづく思います。

そんなある日、おもしろいメッセージがこころの中に流れ込んできたことがありました。

今日はその体験を綴りシェアさせて頂けたらと思います。

「我・エゴ」というものがなぜ、この世界に生まれたのか。

そんな問いを内側で発した時のことだったと記憶しています。

曇天のもと、ある小山の頂きで瞑想していました。

瞳を閉じ、結跏趺坐(あぐら)をとり、耳を澄ませていました。

上空で雲が唸っていました。

 

羽虫が耳元を通り過ぎていきました。

 

蟻が首筋を駆け上がり、噛み付いていました。

 

ヒルと思われる何かが足首をゆっくりと突き刺していました。

 

「首の蟻を払い落とせ」

「足首をすぐさま確認するんだ」

 

生存本能が声を上げていました。

 

足首の痛みを見つめました。

痛みは、普段認識している「痛み」から徐々にその姿を変えていきました。

痛みは、チリチリと細かく揺れうごきながら位置を変え、移動していました。

振動でした。

振動を、足首の皮膚が「痛み」として捉えていました。

 

口の中に何か、味を感じました。

味は、微細な振動でした。

微細な振動を、舌が味として認識していました。

そして、その認識すらも、もっと微細な振動だと氣がついたとき、

鳥のさえずる音も、這い回る蟻も、次第にすべては振動へとその姿を変えていきました。

全てが空間の中を、振動していました。

痛みも、音も、動きも、生も、認識も、全てが振動として存在している世界へ入っていったとき、わたしと言う隔たりは消えていました。

全てがただ振動し、全体で一つでした。

「全てが一つであるこの世界で、なぜ、我・エゴが生まれたのか」

そう問いかけたとき、雪崩の様に迫ってくるメッセージがありました。

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「人は、この世界を理解したかった。分かりたかった。」

「分けることで、分かろうとした。」

これは、蟻。
これは、ヒル。
これは、植物。
あれは、太陽。
これが、痛み。

 

「呼び名を与え、ひとつ一つを分けていった。呼び名を与え、ひとつ一つ分かっていった。」

 

「そして、あらゆるものと切り分け、最後に残ったのが「我」だった。」

我、あり。

「我」という文字は、左がノコギリを示し、右が戈(ほこ)で出来る

 

ノコギリと戈で切り分けて、分けて、残ったのが「我」

両手に、ノコギリと戈を持っている姿。

「我」は分ける。分かろうとするが故に。

 

「我」は分離してしまった。

 

世界から分離した「我」は、本当は一つであった世界と自分とが別々のものだと感じる様になった。

「我」は身を守ろうとする。自分だけ安全であれば良いと考える。

だから、両手に武器を持ち、自分以外を切り分け分別し、時には攻撃する「がーー!!!」と。

我の別名を「エゴ」と呼ぶ。

こちらにも、濁点として2つの武器がついている。

2つの武器からなる「我」は、武器を手放したらその姿を消し、「エゴ」の武器を手放せば、それはまた再び自然と一つの「エコ」となる。

今、人間の「我・エゴ」が強くなっている。

 

我が身だけ安全であれば良いと言う考えが、あらゆる問題の根となっている。

 

この根を、断ちなさい。

 

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後半に、ダジャレが散在しており、とても真面目で間違いないことのようで、どこか間の抜けたメッセージでした。

 

山から戻り、居候している家に戻るときに、氣功家の先生が僕を呼び止めました。

「ダイsan、カミーング!!ルック、ディース!」

指差す先には・・

 

「エクストラへヴィーな蛾」が佇んでいました・・

 

メッセージは、こころの中だけに留まらず、視界の先にまで届いてきていました・・

 

一瞬頭がぐらつく感覚を覚えながらも、今回のメッセージを胸に刻み、自身の「我・エゴ」と向き合う瞑想を再開したのでした。

 

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

自然の力は、今この瞬間も、癒そうとしている。

こんにちは。
〈わたしに還るyoga〉のクラスを開いています、山崎大です。

初めに、地震被害に遭われた方、そのご家族、親しい方々へご冥福をお祈り申し上げます。

未だ余震が続き、不安と伴にお過ごしの方々が多くいらっしゃるかと思います。

一日も早く安心の日々が始まってゆくことを重ねてお祈り申し上げます。

 

 

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安曇野は、さくら満開を迎え、加えて大晴天。

昨日は一番長くお付き合いのある安曇野クラスの皆さんと、地元の光城山へ「お花見ヨガ」をしてきました。

 

自力で山を踏みしめ、芽吹いた草花から湧き出る氣を吸い込み、さくらと上空に広がる晴天に包まれている時間は、内側のいのちが目覚める絶好の機会となりました。

 

「お花見ヨガ」だけに関わらず、「自然への中へお出かけヨガ」と題して、これからも折を見つけて外へ出かけていきたいと思う一日となりました。

 

「お花見ヨガ」などと言っていると、全米ヨガアライアンスなど権威ある場所から資格を取得した方々から叱責されそうですが、お花見はれっきとしたヨガだと個人的には思っています。

 

晴天で花咲き誇る季節に、室内で一様に決まった姿勢をとっていることは、自然の立場から見ると不自然だと感じます。

 

どこから見ても100%自然からでき上がっている体を持って生まれ、口に入れるものも出てゆくものも100%自然である人間であれば、自然の中で自然のままに振る舞うことが良いと思うのです。

 

 

「自然の中で、自然のままに振る舞う」これが出来たのであれば、人間の持っているあらゆる病氣や問題は根こそぎ解消されてゆくと感じています。

 

大げさでなく、とても真剣にそう感じています。

 

ですので、ここから先はじっくり書いていこうと思います。

 

 

「自然の中で、自然のままに振る舞う」

 

 

「自然の中で」は、そのまま誰もが大差なく共通に思い描くことが出来るシーンだと思います。

 

では、「自然のままに振る舞う」とはどういったことなのか。
ここが重要な所です。

 

まず始めに、わたしたちは「自然のままに振る舞って」いません。

 

あらゆるルールや制限の中を生きており、言葉も行動も服装も髪型も、制限の中で決められた中から選んでいます。

怒りは当然の様に制限され、泣くことも、大笑いすることも、場所をわきまえなければなりません。

 

わたしたちの行動は、自然の立場から見たときに「不自然」であるということが前提としてあります。

 

 

花は、咲きたいときに咲きます。

人間が立ち止まらずとも芳香を放ち、もっともっとと言われようが、時が来たら枯れていきます。

自然の中で、自然のままに振る舞っています。

 

 

人間は、どう見られるかを氣にして行動を考えます。

どんな反応があるのかを考えて言葉を話します。

きれいって言ってもらえるような服装を選びます。

 

 

そのひとつ一つが、内側の自然から自らを切り離し、外側の評価を得ることに価値を見いだすサイクルを作り上げてゆきます。

 

 

そして不自然へと向かってゆきます。

 

その先に、体のコワバリやコリが顔を出し、病氣が生まれてゆくのだと感じています。

 

「病」とは悪い癖という意味を持つ漢字です。

 

病に見舞われたとき、それは「本当の自分、自然と離れてしまっているよ。」というメッセージなのだと感じます。

 

 

「自然のままに振る舞う」

 

 

もし、不自然を続けてきて、急に「自然のままに振る舞う」をしたとしたら、「咆哮し、嗚咽し、身もだえる様にめちゃくちゃな動き」をすると感じます。

もしくは、それらが同時に出ると思います。

僕自身は、瞑想中のある日それが起こり、何日も続きました。

 

 

それは、体の中に溜り込んだ怒り、悲しみ、やり場の無い思いたちが、表現として出てゆく場所を求めており、感じたものは表現されることが自然であり、溜め込まれたものも吐き出されることが自然だからだと感じます。

 

「いいや、僕は怒りなんて無いよ。全く感じていないもの」
と言う方もいるかもしれません。

誤解を恐れずに言うと、感じ取れていないだけです。

 

幼少より我慢を重ね、分厚い膜の下へと封じ込めてきたのです。

 

我慢している状況に耐えることは苦痛です。

苦痛が続くことを生存本能は嫌がります。

 

本能の働きにより、意識の深い部分へと沈められ、普段感知できない様に、それが当たり前のような状態になっています。

 

不自然を続け、不自然でいることに慣れ、本来の自分が本当に感じていることや自然な振る舞いというものを置き去りにしているのが多くに共通する現状であると感じます。

 

内側を目覚めさせてゆくこと。

 

そのためには、外側を取り去ってゆくことです。

外側とは、他者からの評価であり、ルール・制限であり、「〜するべき」で表される多くのことです。

まるで人間を囲い込む檻のようなそれらを引きはがし壊し去り、本当の自分自身を取り戻してゆくことが健康で活き活きと生きる上で大切なことなのだと感じています。

 

一見、動物的でおかしな動きをクラスでは取り入れています。

それは、評価や制限を壊してゆく為に役に立ち、自然のいのちとして生きる本当のエネルギーへのアクセスを可能にすると感じています。

 

ひとたび自然のいのちであるエネルギーへアクセスすれば、溜め込まれた怒りや悲しみ、言葉にできない感情たちは、排出へ向かっていきます。

それが、自然の働きだからです。

 

コリやコワバリも、自然のいのちは今この瞬間も癒し解こうとしています。

 

流れる自然の力を制限しているのは、紛れもなく自身の思考の制限です。

 

自分が自分を縛っている。

 

その制限を解くことが出来るのも、ご自身に他なりません。

 

大自然への全幅の信頼のもと、コントロールを手放し降伏してゆく。

 

そこから先、幸福の道が始まるのだと感じています。

 

身に起こる全てはお任せ状態。

 

 

体は咆哮を始め、嗚咽し、身もだえます。

 

 

自然の排出運動が目覚めてゆきます。

 

自然が目覚めたら、そこから先は自動操縦。

 

コリ・コワバリや病は消えてゆきます。

 

 

クラスでは、じっくりと時間をかけ排出運動へ向かっていきます。

制限やルールをひも解きながら、過去をひも解きながら、コントロールを手放してゆく道を進んでいきます。

 

僕自身もひとりの練習者として、その道を歩んでいます。

 

伴に開放と大健康への道を歩む同志がいることを願っています。

 

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

今後とも、どうぞ宜しくお願いいたします。

性格は、変えられる。性格ができるまでのメカニズム。

こんにちは。
「わたしに還るyoga」のクラスを開いています、山崎大です。

 

クラス安曇野も春うらら、さくらも満開です。
氣持ちのよいこの頃です。

様々ないのちが芽吹き、彩りを増してゆく景色に囲まれていると、内側があらたな始まりを求めていることを感じます。

 

この春からは、yogaの「つなぐ」力をより前面に出していけたらと感じます。

 

新たに出逢って、心地よく繋がってゆくこと。

 

人には様々な喜びや願いがあるものだと思いますが、「出逢い、繋がること」はそれ自体が喜びであり、更に大きな喜びへの基礎になる大切なことであると感じています。

今回は、人と出逢い繋がってゆく上で、大切になるそれぞれの「性格」について、それが出来るまでをひも解きながら綴ってゆけたらと思っています。

性格とは、どのようにして出来てゆくのでしょうか?
朗らかで良く笑う性格。
卑屈な性格。
臆病な性格。

 

などなど、人の性格をあげ出したらきりがないのですが、生まれた時から大人になるまで、すこしずつすこしずつ、性格は造り上げられてきたように感じます。

世界を旅していた頃、アルメニアとイランの国境でこのような方と出逢いました。
「次の町まで乗っていきなよ」
と親切にも声をかけて頂きました。

 

この方は、とても親切な性格です。

 

どうしてこの方は、見知らぬ人を車に乗せるように接するのでしょうか?

 

人によっては、
「知らない誰かを車に乗せるなんて狂気だわ!」
と感じたり、
「女性ならまだしも、男性は乗せるものですか」
と思うのかもしれません。

 

 

そのように感じたり、行動したりする裏には、「必ず過去がある」と思っています。

 

 

写真の男性は、過去において「他人を車に乗せたこと」があるのでしょう。
そして、その中で楽しい話題に花が咲いたのかもしれません。

 

もしくは、他人から同様の話を聞いたことがあるのかもしれません。

 

間違っても、「他人を車に乗せてあげようとしたら拳銃を突きつけられ身ぐるみをはがされた」という過去は無いはずです。

 

もし、その体験を経た上で、満面の笑みと伴にヒッチハイクする外国人を乗せてあげようと思えたとしたら神です。

 

つまり、何かを目にしたときに感じる感覚や、行動は過去の体験から造り上げられてゆくということが言えると思います。

性格とは、行動のパターン、思考や感覚のパターンに他ならず、それは過去を抜きにして語れないものだと思います。

性格は遺伝するとも言われますが、遺伝子にも記憶があり、その記憶を引き継いでいることを考慮すると、やはり性格は過去の記憶から始リを告げているのです。

余談になりますが、ほ乳類はむかしむかしそのむかし、ねずみのように小さかったようです。

 

天敵は、巨大なヘビでした。

ヘビにいつも食べられてきたのです。

「ヘビをみたら逃げろ!」これが過去から手に入れた教訓であり行動です。

この記憶は遺伝子を経由して引き継がれ、猿の赤ちゃんにヘビを見せると逃げ出すようです。

わたしたち人間も例外ではなく、「ヘビだあーっいすき♡」という方が滅多におられないのは、遺伝子の記憶に寄る所が大きいと言われています。

わたしたちの性格は、遺伝も含め、過去の体験とその記憶から引き出されているということが言えます。

 

では、どのような記憶が、性格を作り出す上での鍵となるのでしょうか?

わたしたちは、心地よかった記憶は「もう一度味わいたい」と願い痛みなどの不快な記憶は、「もう二度と体験したくない」と感じます。

 

そしてそれは、脳の深い部分で、信号として扱われており考える前に体が反射的に反応する仕組みがあります。

 

それは、梅干しを見たら勝手につばが出てくることに似ています。

「梅干しは酸っぱい」という過去の記憶が、反射的に体を反応させてくるのです。

もし、今までにおいて梅干しを一度も見たことの無い外国人であれば、つばはまず出てきません。

 

そして、その反射に加え、快か不快かに判別をしています。

 

とてもおいしかったラーメン屋さんにもう一度行きたくなる様に、心地よい記憶は再度求めるというメカニズムがあります。

同様に、すごくすごくまずかったものはもう二度と食べたくありませんよね?

「まずい!!おかわり!」となるのは、青汁だけの話です。

この記憶に対する「快・不快の判断」がその後の行動のパターンを決め、性格を作り上げてゆくというメカニズムがあります。

クラスで行う瞑想は、意識の深まってきた辺りから過去へ戻っていきます。

体が完全に脱力し、思考が停止した状態で過去に戻ってゆくと、思考レベルでなく体験のレベルで過去を見ることが出来ます。

 

過去において、何が起こったのかが事細かに分かり、「過去の記憶にどのような判断」をしてその判断から現在の行動を決めていたのかに氣がつきます。

 

この氣付きが、性格を一変させることは良くあると感じています。

 

「ずっと絵が下手だと思っていたけれど、友だちに笑われたときに下手だと思い込んでいたのだった。」

「人前で話すことが苦手だと思っていたけれど、幼い頃先生から注意されたことから、そのように思い込んでいたのだった」

 

そんな思い込みの殻が氣付きによって破られてゆくのだと感じています。

 

言葉にすると、味気ないのですが、体験を伴った過去が氣付きにより意味の書き換えが行われる時は、衝撃的な体験となることが多いと感じます。

まさに、肚から理会する。

腑に落ちるといった体験となると感じます。

瞑想により
性格は、変わる。
同時に、過去の意味付けも変わる。
過去の意味付けが変われば、過去が変わったも同然。

そのように感じています。

瞑想は過去の意味を書き換え、癒し、よりパワフルに行動してゆくことが出来るチャンスをいつでも与えてくれていると感じます。

 

出逢い繋がってゆく春。

よりパワフルなご自身として行動をしてゆく切っ掛けとして、瞑想をお伴にして頂けたらと思います。

 

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

つなぐ前に、大切なこと。ゆるす、ということ。

こんにちは。

わたしに還るyogaのクラスを開いています、山崎大です。

春を迎え、僕の内側が騒いでいます。
どうも「つながり」の時代の到来を強く願っているようです。

 

人と人とのつながり。

自分自身とのつながり。

 

それらを深めてゆくことを、時代が求めていると感じています。

 

大げさかもしれませんが、時代が、求めています。

 

ここからは、さらに「つなぐ」力が必要になってゆくと感じ、クラスでもより「つながり」を意識した内容を取り入れていっています。

ですが、つなぐ前にあることをする必要があり、それをしないとつなぐことが出来ません。

今回は、「つなぐ」ためにまず必要なことについて、綴っていこうと思います。

 

では、春うららハイテンションで行かせて頂きます。

 

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つなぐとは、インド古代のサンスクリット語でyogaであり、yogaには元々つなぐという意味が込められています。

以前のブログにyogaで何と何をつなぐのかについて綴っておりますので、ご参考までにご覧いただけたら幸いです。

 

今回は、「つなぐために、まず必要なこと」について書かせて頂きます。

「つなぐ」と耳にして、何を思い浮かべるでしょうか?

「手をつなぐ」「「顔をつなぐ」「魂と体をつなぐ」

 

つなぐという言葉は、様々なシーンで使われる言葉です。

挙げた例の中で、一番分かりやすい「手をつなぐ」を取り上げて話したいと思います。

手をつないでいる様子を思い浮かべてみると・・

つなぐためにまず必要なことが見えてきます。

それは、つなぐ前の手が「開かれている」ということです。

「なあんだ、あったりまえじゃない」

と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、ここがとてもとても重要な所です。

そして付け加えるならば、開かれた手は、「落ちついて」いて、「ゆるんで」いた方が、親しみを持ってつなぎやすいですよね。

ガチガチに緊張した状態で無理矢理開かれていても、なんだか手をつなぎづらいです・・
また、握りしめていたら、拒否されていると感じてつなぎたい氣持ちも消えてしまうかもしれません。

「顔をつなぐ」も同様に、ニコニコ笑顔で開かれたもの同士であれば、つなぎやすいですね。

実は、「魂と体をつなぐ」も同様だと僕は感じています。

体が開かれ、弛んで、落ちついている。

この状態になったとき、魂と繋がってゆけるベースが出来てくると感じています。

ですので、つなぐ前に十分にゆるませ、ほどいて、開いておくことがとても大切だと感じます。

日本の社会で生きていると、努力し、緊張し、強張り、結果閉じてゆくことが多くあるように感じています。

ですので、ゆるんでほどいて、開いてゆくということがピンと来ないかもしれません。

ご参考までに、「ゆるむ」は「ゆるす」から来ているといわれます。

また、「ほどく」は「ほとけ」が由来だといいます。

仏様のように穏やかな笑顔で、様々な事柄をゆるしてゆくとゆるみ開かれてゆく。
ということなのかもしれません。

そして、「ゆるす」とは、手放すということでもあります。

ごめんね。

といわれ、「だめー!!」と応えるとき、何かを掴んでいるのです。

 

「大好きな花瓶を壊されて、ただでゆるすものですか!新しいものをかってくれなきゃゆるしてあげないわ!」
という場合、花瓶に執着があります。

 

大好きという執着です。

 

「いいよ」
と応えるとき、掴んでいるものは無く、手放しています。

ゆるすとは、手放すことであり、仏様になってほどけていることであり、その時、手は握りしめているのではなく手放し開かれているのです。

クラスでは、「ゆるしているときにしている体の動き」と「掴んでいる時にしている体の動き」を取り入れながら、体から自然にゆるみ、ゆるしていけるようボーディーワークを構成しています。

既成概念からすると少しばかりおかしな動きも多いですが、楽しんでもらえたらと感じています。

一例を申し上げると、「大あくびをする」ことは、緊張しているシーンではまずでない動きです。

目を見開き、体全体に力を込め、歯ぎしりをすることは、リラックスしているときにはまずでません。

弛緩は、大緊張のあとに起こるという体のメカニズムを利用し、このような動きを繰り返し、ゆるみへと向かってゆきます。

つなぐ前に、まずほどき、ゆるみ、開いておくこと。

ここが土台となり、つながりへと向かってゆけます。

つながりの先にある喜びへと、多くの方々と伴に歩んでいけたら幸いです。

これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヒマラヤンエピソード・光の呼吸との出会い

こんにちは。

 

〈わたしに還るyoga〉のクラスを開いています、山崎大です。

暮らしている長野安曇野は、オオイヌノフグリフキノトウなどの新芽が顔をのぞかせ、吹く風もどこか暖かみの感じる冷たさで、太陽の光線は皮膚を通過して深部まで一直線に走ってゆく強さに変わってきているこの頃です。

晴天が続き、氣持ちの良い日は、個人的に「光の呼吸」と名付ける呼吸法を模索し見つけていった当時のことをよく思います。

ヒマラヤに籠り、自然の中を自然だけで生きていた日に、「光の呼吸」を体験しました。

当時は、ヒマラヤの雨期であり、朝にもかかわらず、むわっと立ちこめる生温い湿氣を含んだ亜熱帯のジャングルの中、裸足で歩き回っていました。

修行という名でヒマラヤに籠ったのを良いことに、僕は常にわくわくしていました。

その土地が生む、豆とトウモロコシに麦。
それからバッファローの乳、にわ鳥が毎日一つだけ生む卵。

それらを食べ、あとは山を裸足で歩き、ジャングルの中を歩き回りました。

ジャングルから戻ってきた時は、両足の指の間にぎっしりとヒルが入り込み、取り除くのに10分程かけなくてはならないことは、確かに修行でした 笑

ジャングルは生氣で満ちていました。

コンクリートジャングルと呼ばれる都会は、確かに人を養っています。

店が建ち並び、食品に衣類、生活を支えるあらゆるものがお金と引き換えに手に入ります。

 

生物を養う、それがコンクリートであるかどうかに関わらずジャングルと呼ばれる場所の持つひとつの役割のようです。

ヒマラヤのジャングルは、コンクリートとは圧倒的に違いました。

生み出し、養う生き物の規模がまるでまるで違います。

そこ自体、ジャングルそのものが息をしており、生きており、生き物であるということが大きく違いました。

コンクリートは、生きておらず、生きていないコンクリートの中に囲まれては、生き物の尊厳である自由を引き換えに差し出さなくてはならず、そのものの生命力も自然と減ってゆきます。

生のジャングルは、全てがいのちでした。

次第に、耳を澄ませば、木々の呼吸を、鼓動を感じるようになり、土に潜む微生物たちのざわめきや、遠くに潜む虎の氣配を感じることも増えていきました。

いのちが、いのちを養い、いのちが、いのちを生み、まわっていました。

ジャングルは、荒々しく蒸し、踏み入れたその時から、いのちのやり取りが始まっていることが、足首にぶら下がり、血液で膨らんだヒルを見ながら氣がつきました。

いのちは、いのちの中で、いのちを分け合い、全体として、一つのいのちとしてまわっていました。

そして、その全体のいのちの輪の中に僕がいるという紛れもない事実が、はっきりと浮き立つように実感出来ていきました。

次第に、個の感覚は遠くなり、僕に流れる血液は、ヒルとなり、ヒルを口にしたツバメとなり、卵となり、また変わり、目の前を横切るトンボになっていると感じたとき、すべては、僕そのものとなっていました。。

山籠もりは、多くが孤独であり、それは、至福でした。

目の前に存在する全てが、僕を分け、僕は、彼らを分けて出来ており、そのすべてが大いなるいのちであり、「自然」でした。

自分とは、自を分けると書くように「わたしを分けたもの」であり、そのわたしとは、「然り」が「その通り」という意味で古来より使われてきた文字が示す通り、「わたし、その通り」=「自然」であることが、心の底から生き物として、いのちとして、実感してゆきました。

ヒマラヤジャングルでの修行生活は、今となっても最高の宝の一つであり、僕をいつも押し上げ支える、揺るぎのない土台です。

ある日、いつものようにジャングルを裸足で歩いていると、あることに氣がつきました。

余談ですが、この時の「歩く」は、ただの散歩ではなく、一足ひとあし感じながら歩き、空氣のざわめきや、草花から醸し出される氣を感じながら歩く、「氣功歩き」をしていました。なので、とても歩みは遅く、時折立ち止まり目をつむり、踊るように手足を動かしている僕を稀にお逢いする村の人たちは興味深げに見ていたように思います。

 

ジャングルは、いのちがいのちを食べ合い、養い、生み出しながら、鼓動し、変化し、その連続の最中で、今、目の前に居ました。

 

「光が奥にある」

「生とは、光だ」

いのちは、食べ合いの中で、「光」をまわしていました。

 

光で、生き物は動き、光が、僕の中をまわっていました。

光とは、文字通り太陽から休むこと無く降り注いでくる光であり、草花や動物の中に巡る「氣・エネルギー」のことです。

最近では、細胞の奥に光を貯蔵する場所があり、光とは「氣・エネルギー」であることも科学的に分かってきています。

ここで科学的根拠を持ち出さなくてはならないことは悔しいですが、これから話す「光の呼吸」が単なる空想やイメージだけの世界と捉えて頂いては、なんとももったいなく感じるからです。

光が、いのちをまわしている張本人であることに、ヒマラヤのジャングルで氣がついたのでした。

そして、そのエネルギーは、口から食べものとして吸収することも出来るのですが、呼吸で手に入れることが出来ることが体感を通して分かりました。

僕は、「光の呼吸」と名付け、日々光を吸い込んで暮らしました。

 

体は息を吹き返したように、奥底から元氣になってゆくのが一日ごと違いで分かりました。
節々のゆるみが加速していくのが分かりました。

体の内側へ意識を送ると、吸い込んだ光は、頭の頂点から脊椎を照らしながら通り抜け、体の隅々まで広がってゆきます。

 

不調や、病氣がある場所は、暗く、闇のように意識できました。

古来の日本では、病氣のことを「病み」と呼び、暗いことを「闇」と呼び、文字の無かった更に古代は「やみ」一言で両方を指し、区別は無かったとききます。

下山後、発見した「光の呼吸」は誰かが同じように発見しているはずだと感じ、インターネットで「光の呼吸」と検索してみました。

 

鼻息は荒めでしたが、結果、もっと荒くなりました。

既に多くの方々が実践しておられ、「万病を治す呼吸」「ガンすら治る呼吸」「若返りの呼吸」「意識を浄化する呼吸」とあらゆる方面からこの呼吸を取り上げていました。

 

ただ、科学的根拠が薄いため、宗教的に思われている団体も少なくないといった様子でした。

春になり、太陽の光が力強さを一層増してくるこの時期、もう表現していっていい時期が来ているように感じています。

「光の呼吸瞑想」
クラスでは、時折取り入れています。

これからこちらのブログでも、やり方を綴っていけたらと感じています。

どうぞ、今後も宜しくお願いいたします。

 

今回も、最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

もう一度、生まれる。

こんにちは。

わたしに還るyogaのクラスを開いています、山崎大です。

 

先日、ナウリ浄化法の特別クラスを松本市の東昌寺さんにて行わせて頂きました。

薬師如来さまを前に行う瞑想は、高次の助けも相まってぐっと深まったように感じました。
大きなキャンドルもご用意して頂け、心地よい明るさがありがたかったです。

ナウリを行うにあたり、お腹に溜っている感情の開放が重要と考え、そちらを開放してゆくことをまず初めの目的としクラスを始めております。

お腹に指を押し当て、揉み解すように直接的にアクセスしてゆくことも大切と捉えておりますが、そもそもどのような感情がお腹に溜っているのか、ひも解いてゆくこともまた一つ大切なことだと感じています。

 

なぜ、「感情はお腹に溜る」のか。
そして、なぜわたしたちは「感情を自由に表現できない」のかについて今回はわたし自身の頭を整理することも目的とし、綴っていけたらと思っています。

 

何となくですが、長くなりそうな予感がいたします。

 

お急ぎの方は、後ほどお時間のあるときにお読みいただけたら幸いです。
お手洗い、我慢されている方は、出し切った後がよろしいかもしれません。

 

では、いきます。

 

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いつの頃からでしょうか?

 

あれほど無邪氣に泣き、笑い、思うがまま駆け回っていた幼い時代から、少しずつ泣くことを我慢し、笑いも場をわきまえ、全力で走ることをしなくなったのは。

 

 

全力で走るどころか、何かにつけて「全力である」ことを暑苦しいやストイックすぎると言い訳し、避けるようになったのは。

 

その奥には、何が隠れているのでしょうか?

 

 

そもそも、泣き笑い、全力でかけずり回ることを「無邪氣」と呼びます。

簡単にいえば、無邪氣とは内側の思いに「素直」であることです。

 

無邪氣とは、字の如く「邪氣が無い」ことであり、素直とは「素のままに真っ直ぐであること」です。

 

つまりどこかで、邪氣が入り込み、真っ直ぐではなく少し歪んでしまったのでしょう。

 

歪みという文字が出てきましたので、「歪み」も文字として見てゆくと、「正しくない=不正」です。

つまり、「内側の感じていること、思っていることをそのまま出していない(素直でない)」状態です。

 

では、「邪氣」や素直さを「歪める」そのものとは何なのでしょうか?

 

それが実は、「外側の世界(他人を含む)」だとわたしは感じています。

わたしたちは、楽しいときに笑いました。

悲しいときに泣きました。

誰だって幼い頃はそうしてきたはずです。

けれど、そうでないものと出逢うようになります。

 

「ここでは、笑ってはだめ」
「もう大きいんだから(男だから)泣いてはだめ」
というように、外側から制限が被せられてゆきます。

 

そして感情表現とは、「生身」です。

 

その人そのものの感受性をあらわし、「生のその人」なのです。

 

否定され、矯正されることで、「痛み」「傷つき」ます。

感じていることを共感したいと同時に、共感できなかったり否定されることで「痛み」「傷つく」のです。

以前のブログ「自分の世界を取り戻し、自分の世界を守ること」に綴ったように、わたしたちは「一人ひとり違う感受性を持ち、違う世界を生きて」います。

 

だからこそ、会話し、共感してみたいのですが、共感したいが故にそれが「できないと悲しい」と感じます。

 

その「悲しみ」「痛み」を感じたくない(避ける)が故に、「生身である感情」を出さなくなってゆきます。

つまり、嘘つきになってゆきます。

「本当は泣きたいけど、ぜんーんぜん、感じてないもーん!」
「めっーちゃ、笑いたいけど、平氣だもんねー!」

と周りを伺いながら、「ありのままの生身」を隠すように嘘をついてゆくのではないでしょうか?

 

嘘つきといったら、言葉は極端ですが、そんなものだと思うのです。

その嘘が、「歪み」であり「邪氣」なのだと感じています。

 

そして、その邪氣を運んでくるものの正体が「外側の世界(他人を含む)」です。
そして外側の世界とは「常識」であり「普通」という考えです。

 

「一人ひとりが違う世界を生きている」
ことを認識できていない幼少期は、
「○○ちゃんは、ちがう〜」は、「○○ちゃんはおかしい〜」となりがちです。

 

違って当然という感覚がなく、全てを自分の感覚で捉え、違うものはおかしいものとしたいのです。

 

しかし、他人の多くが自分と違う場合、「わたしがおかしいのかな?」となっていき、答えを求めます。

その答えとなるのが「常識」や「普通」という考えになる訳なのですが、「常識」も「普通」も知っていて一応の役には立つのですが、「虚構」です。

 

こちらについては、以前のブログ「自分の世界を取り戻し、自分の世界を守ること」をご覧いただけたらと思います。

 

「普通はこうだから」とその「普通」に自分を当てはめて、その「普通」に沿ったように表現し「本当に感じている自分」を隠し守っていきます。

 

今、多くの方が「常識」や「普通」といった「虚構」を隠れ蓑にし、「本来の生身の自分」を表していないのが現状だと感じます。

そうしている以上、幸せを感じることはないと思うのです。

「本当に感じている自分」を置き去りにしていますので。

ですが、「ここでは笑ってはだめ」
とか
「もう大きいのだから泣いてはだめ」
と子どもに言うことが悪い訳ではないと感じます。(もちろん理由もしっかりと伝えた上で)

 

多くの方々と関わり生きる以上、社会的な「常識」や「普通」の物差しは持っている方がずっとスムーズです。

常識や普通の中に身を浸し、学び取ってゆく時期は大いにそうするのがいいと感じます。

けれど、それは他人や社会とスムーズに関わるための道具であり「虚構」であることは忘れてはならないと強く思います。

何事も常識的でてきぱきと事をこなし、笑いも泣きもしない。

となれば、経済社会の中では有能なのかもしれません。

 

そして、そうしていた方が、経済でまわっているシステムの中ではスムーズなのはいうまでもありません。

しかし、それはシステムを回すという事においてです。

そしてよりスムーズさを求めるのであれば、経済をまわすのは人間でない方がよりいいでしょう。

より正確な「ロボット」や「コンピュータ」の方がずっと有能でしょう。

それがいいのなら、常識をきっちり守り感情はひた隠していれば良いのですが、それはロボットの道であり、人間にとっては不幸せの道となることに疑問の余地はありません。

全体的に話が本来の筋とそれてきましたので、一氣に元に戻しますが、「感じている生身の自分」をはっきりと取り戻し、今後はその中に「常識」や「普通」や「他人の尺度」を介入させないことが大切だと感じます。

 

それらを介入させれば、「生身の感じている自分」を押さえることに繋がっていきます。

 

そして、「笑いたいけれど、笑わない。」「泣きたいけれど、泣かない」ときに、お腹が緊張し、お腹にそれらの感情が溜っていくという道を辿ることになります。

わたし自身、「大嘘つき」でした。

 

「本当に感じている自分」を置き去りにし、「普通」が求めるものを追っていました。

 

「感じないこと」が日常でした。

そんなわたしは、インドヒマラヤで瞑想に明け暮れ、瞑想漬けの日々を過ごしました。

ある時、瞑想センターで行われた10日間コースを終了し、本当の自分と繋がった後に見た世界。

そこは、まるで違う世界でした。

朝靄の中、赤い太陽が木々の合間を駆け抜け、動物たちの生暖かい息づかいを感じました。

 

鳥たちが空を駆け抜け、その躍動する鼓動まで手に取るように伝わり、背骨を真下から脳天まで貫きました。

木々の緑は、これ程までにという程に鮮やかに浮き立ち、地面を流れる水が常に変化していることを自らの血液の流れと同時に感じ、蟻たちが活動する様子が自らの体内を駆け巡るエネルギーと重なりました。

「こんなにも、こんなにも、うつくしい世界を、生きていたのか・・」

「この世界は・・甘美だ・・」

どこかで聞いた台詞が、思わず口をついて出ていました。

涙はとめどなく溢れ、地面にこぼれ落ち大きな染みを幾つも幾つも、つくりました。

それが、「わたしを取り戻した」瞬間でした。

「本当の自分」と大きく離れていたからこそ、「遂に再び出逢った」という感動は、それはそれは大きなものでした。

 

その時、この世界に「もう一度生まれた」のでした。

 

もう一度生まれること。

 

それが、「本当に感じている自分」と取り戻すことであり、その道が「瞑想」であると感じます。

 

その過程で、お腹の緊張は弛んでいき、かつての感情も開放されてゆきます。

 

「ナウリ浄化法」も瞑想の道を辿る途中にある恩恵の一つです。

 

一朝一夕にいくものではなく、すこしずつすこしずつ大きな氷をしたたたる水で溶かすが如くの継続が大切に感じます。

 

「本来の自分と繋がり、幸せへと向かう道」
もちろんわたし自身も未だ道を歩むひとりの練習者です。

 

ですが、試行錯誤の中、滴る氷を溶かしてゆく水を、温水に変える方法や知識をお伝えできると感じています。

伴に道を歩み、心から笑い、泣ける仲間ができたら幸いです。

また今後もどうぞ、よろしくお願いいたします。

 

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最後はなぜだか、これからも宜しくお願いします。
になってしまいましたが、どうぞよろしくお願いいたします。

 

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

ナウリ浄化法・そのメカニズム2

こんにちは。

わたしに還るyoga

のクラスを開いています、山崎大です。

前回の記事では、ヨガの浄化法である「ナウリのメカニズム」について綴りました。

ナウリ浄化法↑

ナウリ浄化法を行うにあたり重要な部分である「内臓の引き上げ」をするには、呼吸をするために使う筋肉である横隔膜を鍛え柔らかくする必要について前回力説しました。

けれど、横隔膜の筋肉が軟化し筋力が高まっても「内臓は引き上げ」はできない。
という所で次回に持ち越しになってしまっていました。

今回は、横隔膜の筋力同様に「内臓の引き上げ」行う際に重要である事柄について綴っていきます。

横隔膜は、肋骨の底辺をドーム状に張っている膜であり筋肉です。

 

息を吐くときに、横隔膜のドームは頂点を高め、肺が縮まり、つられて内臓が引き上がりお腹が凹んでいきます。

 

 

この力を使い、「内臓の引き上げ」を行うのですが、引き上げを行う際にもう一つ重要な点があります。

それが、「腹部が弛んでいること」です。

お腹周りの筋肉、内臓が十分に弛んでいなければ、横隔膜の筋力が上がっても内臓は引き上がりません。

そればかりか、無理に力で引き上げようとしてしまっては、内臓に損傷を与えかねません。

 

内臓は、腹膜や内臓間膜と呼ばれる薄い膜でそれぞれが覆われているようです。

普段、動きの多くない内臓であれば、膜と膜の間も動きはなく、癒着しているのではないかと感じています。

 

実際にわたしが、お腹を弛めるいくつかの手法を自身に行っていた際に「メリメリッ」と内臓と内臓がこすれ合ったり、引き離されたりするような音が聞こえ、感覚的にも同様のことが起こっていると感じたことがあります。

内臓が十分に可動し、弛んだ感覚を手に入れてからは、「内臓の引き上げ」はいとも簡単にできました。

 

ですので、「腹部のゆるみ」が十分に行われていない時点での、内臓の引き上げは行わないということが大切だと感じています。

では、どのようにして腹部を弛めるのか。

そもそも、お腹は弛んでいない(緊張している)のか。

率直に申し上げると、お腹には緊張が溜ります。

そして、多くの方々は溜ったままになっています。

どのような緊張かというと、感情的な緊張が溜っています。

ぽーんと飛び出たお腹をしている子どもは多いと思います。(おおよそ5歳くらいまで)

彼らの内臓状態は理想的だと言われますが、緊張がないためだと個人的に感じています。

 

彼らは、泣きたいときに泣き、笑いたいときに笑います。
それが自然だからです。

自然にしていると、お腹はぽーんっ、と飛び出しています。

 

けれど、「泣きたくても泣けない。」「笑いたくても、笑えない」そんなシーンが成長するに従い増えていくものです。

感情をあらわに表に出すことを、成長にしたがい押さえるようになっていきます。(それがなぜなのか、個人的にとても興味深い部分でありますが、今回は割愛します。)

 

感情を抑えるとき、例えば「泣きたいけれど、泣かない」「笑いたいけれど、笑わない」そんなとき、力がこもるのがお腹です。

そして、泣いているとき、笑っているとき、弛んでいくのがお腹です。

 

お腹が奥に引っ込んでゆく年齢と、泣くことや笑うことを我慢するようになる年齢が似通っているのは、偶然ではないと感じます。

わたしたちは過去を忘れていきます。

時は過ぎ、当時どんなに辛く感じていた感情も日々薄れ、感じることは無くなっていきます。

 

そうして、その出来ごとは解決したかに思えます。

そこには、生存本能による「自己防衛」が働いています。

感情的に未処理の物事を抱え続けていることを避けようとする「自己防衛」が物事を「忘れさせ」ていきます。

 

忘れることで、日常に意識することは無くなっていきますが、意識しないだけで無くなった訳ではないのです。

実際には、未処理の感情は緊張として、お腹に溜ったままになっています。

蛇足になりますが、老人が痴ほうになるメカニズムも、この「自己防衛」の働きによるということが最近では分かってきているようです。

本人が「分からなくなる」こと、または「忘れること」で問題が無くなったように本人には思えるのです。

この忘れたようにしまわれた感情を流してゆくために登場するのが「瞑想」となります。

 

瞑想には、様々な種類がありますが、どの瞑想にも共通して言えることは、体に溜っていた古い感情が抜けてゆくことだと思います。

また、瞑想は、体をリラックスさせ脳波を落としてゆくことで深まっていきます。

 

体をリラックスさせ、脳波を落としてゆくためには、横隔膜を使った深い呼吸が鍵になってゆきます。

ですので、瞑想を深めれば横隔膜は自然と発達し、古い感情も流れお腹は弛んでいくということが言えます。

ナウリ浄化法や内臓の引き上げは、結果自然とできるようになっている。と言えると感じています。

 

お腹を弛め緊張として残っている感情を流してゆく瞑想で有効であるのは、「ダンシングメディテーション」や「光の呼吸瞑想」「お腹と対話する瞑想」などいくつか種類があります。

それぞれ、機会を見つけ順を追って今後綴ることが出来たらと感じています。

 

 

今回は、「内臓の引き上げ」を行うにあたり重要となる「腹部のゆるみ」についてでした。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。