諦めが、明らかにし、世界を開く。

こんにちは。

「わたしに還るyoga」のクラスを開いています、山崎大です。

6月に入り、しばらくの時が経ちました。

安曇野には田園風景が広がっています。

稲の子どもたちが少しずつ成長を始め、可愛らしく風に揺れています。

日増しに暑くなり、草花を始め、緑たちはエネルギーに満ち満ちています。

世界を旅していた当時、荷物を最小に押さえたいという思いと、野宿する際に寒いことに耐えられないとの思いから、その国の夏を選び、旅をしていました。

夏が近づき、暑くなってくると当時の旅を思うのか、旅に思いを馳せ、ふとした時に情景が重なってきます。

旅をしていたとき、本を綴っていました。

「生き方のstyleと名付けたそれは、今でも時々ご希望を頂いています。

お手に取ってくださっている方々、ありがとうございます。

本を綴るようになってからと言うもの、言葉というものに大層な興味がわくようになりました。

その興味は、瞑想やヨガと出逢ったのちにはより一層強いものとなり、わたし自身の根幹を支えてくれているように思います。

少し話は変わりますが、瞑想でわたしは音をとても大切にしています。

音は、空間に響く振動であり、その空間を作り出していきます。

音と言う振動に興味が湧いたのは、瞑想との出逢いが大きかったのですが、言葉も音であるとそのころから捉えるようになりました。

歴史をひも解くと、文字というものは、どうもあとから与えられたもののようで、初めはしゃべり言葉のみで会話をしていたようです。

世界には、多くの言語がありますが、その中で文字を持っていないものも多くあることから、文字とはあとから当てるように作られたということはうなずけることです。

例えば、「やみ」とは、「闇」であり、「病み」であり、もともと同じ意味で使われていたようです。

響きが持つ固有の振動がそもそも固有の特性を持っており、その振動に合った意味を使い、わたしたちは会話をしているのではないだろうか?

そんな思いがわたしにはあります。

大陸は違えど、音で意味が重なる事例は良くあると感じます。

トルコで水のことをsu(スゥ)と呼びますが、日本語では水(スイ)中国では水(スゥエー・シュイ)英語では海のことをseaです。

どこか音の響きに似たものを感じます。

以前記事にしたneverも英語では強い否定を示しますが、日本語の「〜(せ)ねば」も本当は〜したいというこころを打ち消す強い否定になります。

このように音には固有の振動が持つ性質があるように感じられます。

そして言葉に対する興味は、瞑想とヨガ行う中で更に強まっていきました。

ある日の瞑想中、明らかになったことがありました。

 

 

それは、この世界が常に変化しており、

同じように繰り返しているように見えることも、

そう見えるだけで、細かく見た時には、必ず変化している。

ということでした。

変化していました。

全てが流動して、流れながら変わっていました。

体も意識も身を包む空氣も・・全てが流動していました。

そう氣がついたとき、このままでいたい。

ずっと変わらないでいたい。

これが、これこそがわたしなのだから。

これを手放したら、おしまいだ。

そんな思いが伴にいることに氣がつきました。

それは、この生存できている状態を何とか守りたいと言うある種いのちの声のように感じました。

全てが変化し流れる中に身を委ねることは、とても恐ろしく感じました。

さりとて、この世の事実は全てが変化し流動しているということ。

それならばその中に身を委ねてみよう。とゆっくりと身を投げ出すことを許していったとき、「諦める」という言葉が強くこころに入ってきました。

そう、諦めます。

わたしはもう、諦めることにしました。

あとは、よろしくお願いします。

そんな思いでした。

明らかなことは、変化であり、流動でした。

今までを手放し、変化の中に身を委ねることは、諦めであり、明らかなことに対する、降伏でした。

参りました。完全に降伏します。

そんな、こころの呟きと伴に、変化の中へ身を委ねることを許したとき、何とも言えない至福の境地が訪れました。

体からは、全ての力が抜け去ってゆき、空間との隔たりが消えたようでした。

体はただただ嗚咽し、理由のない大きな大きな愛の中に溶け出していくようでした。

幸福とは、このことか。

と全身全霊で思い知らされた出来ごとでした。

変化の摂理の中へ、完全に降伏した時に、完全な幸福が訪れたこと。

あとで、「あきらめ」という文字を調べたところ、語源は「明らめる」となっていました。

明らかにみる。

そうしたとき、自然と今までを手放し諦めてゆく。

そんな思いが、体の中心を通過していったのでした。

氣がつくと、こころは開かれたように軽くなり、胸郭は広がっていました。

今まで感じていた悩みや、苦痛も、摂理への降伏へ至るために用意されていたこの世界の味わいだと感じ、それを体験させてくれた世界に感謝を感じていました。

これがまさに、「開き治る」と言うことなのだと身をもって感じた出来ごとでした。

体験の中に、言葉があり、言葉の世界を生きているような心地でした。

このような経験をもとにして、更に言葉や漢字に興味を抱くようになり、未だに個人的な探究は続いています。

次回は、開き治った体験をもとに、「開く」という言葉の語源へと独自の論点から迫ってみたいと思います。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました☆

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そんな出来ごとを感じた場所。ガンジス川の源流に近いデ・プラヤーグ。

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