こんにちは。
イラムカラプテの大です。
イラムカラプテが位置する安曇野。
現在完全に冬です。
外を歩くと顔がピリピリします。
薪ストーブの火が有難いです。
人間の暮らし。
面白いです。
昨年伐採した大木。
今、炎を上げ熱となり部屋をほんわりしてくれています。
その熱はわたしを暖め、この記事をひともじ一文字綴らせてくれます。
そうしてあなたが、目を通す「今」に重なる・・。
かつて大木であったその命は、炎となり、熱となり、人の中で思いと重なり、空間を超え伝播してゆく。
そう。
冬が来ると、そんなことを思うのです。
この地上に生きた人々のこと。
一体、何億の人が、この地上に生きただろう。
この安曇野の地で。
一体、どれだけの人の思いが土地に刻まれているだろう。
イラムカラプテ・・。
アイヌの挨拶であるその響きは、覚えづらいのは最初だけ・・。
10回も口に出せば、優しい音色だと思い出す。
そう、縄文という時代。
人々の間で交わされてきた響き。
イラムカラプテ。
その響きは、どれだけの月日、この地で人達の間を行き来しただろう。
一万年を超え、続いたと言われる縄文時代。
人と人が、自然と人が本来のつながりを持ちながら暮らしていた時代。
イラムカラプテの響きは、そんな遠くかつてにまで想いを馳せる手伝いをしてくれるかのよう。
同じ大地を使ってきた。
地球という大地。
ステージ。
ここを先人たちも使った。
わたしたちも今、ここで生きている。
太古の息吹は、空氣の中にもその氣配を今に残す。
何億の人達が吸い、吐き出した空氣。
そして流れるこの血潮。
父母から受け継ぎ、大元を辿るなら、それは人類の始まりまで必ずゆき着く。
今、生きているということ。
生き延びた祖先たちの血潮の川の先端にいるということ。
戦乱を生き抜いてきた遺伝子。
飢饉を生き抜いた遺伝子。
震災を、暴風被災を超えてきた遺伝子。
世界大戦すら生き延びた。
飢えも餓えも殺し合いの世界も、その中で生き抜いてきた存在たちの残した生き抜く命。
今を生きる誰もが。
そういった存在。
自分にはできない。
自分は取るに足らない存在だ。
そう自分を揶揄する人であふれる日本。
いつの間にか、騙された。
生き抜いた命たちの先端を生きる者たち。
比べ、劣等と思い込んだ。
満点を目指し、減点される中、「できない」を「できる」に変え続ける訓練を重ねた。
「できない」という部分に嫌が応なく注目した。
まだできない。
まだ足りない。
まだまだ半人前。
そう語る多くの大人たち。
半人前のまま。
まだまだなまま。
己を表現することなく消えゆくか。
未完成のままに生き、馬鹿にされてみることが、生きると言うことなのではないか?
馬鹿をみるのはごめんだ。
決まりの悪い思いをしたくない。
そんな思いを引きずったままでもいい。
未完成のまま動き出した時、きっとあなたは馬鹿にする人などいないことを知る。
未完成の表現を馬鹿にしていた内的なあなたには氣がつくかもしれない。
踏み出せないのは、自身に植え付けられた満点であろうとする思い。
人間が満点なはずがあるものか。
人間がシステムに適合できるはずがあるものか。
満点を取ることが、非の打ち所のない表現をすることが、システム通りにことを運べることが、良いことだと素直さゆえに真面目に覚えた。
良し悪しは本来世界には無い。
自然界とともにある時。
炎のひと揺れが。
滴る一粒の水滴が。
ほおをふと撫でゆく風が。
緻密に連動連鎖し、一見すると無駄とも見えるいっときの表情が、次の瞬間を創り出して消えてゆく。
その連鎖で成り立つ自然界。
自然とともに暮らす中で、命の在り方をいつも教えてくれている。
だから、わたし達はできるだけ自然であるのがいい。
ふとやりたいと思ったのなら、やるのがいい。
ふと言いたいと感じたことは、言ってみるのがいい。
ふと感じる。と言うのは、自然に起こることだから。
泣きたいのなら、泣くのがいい。
笑いたいのなら、怒りが湧いているのなら、自然のままに。
そうは言うが、怒りが湧いているときにそれを出して良いものなのか。
そう問う方も多くいる。
怒りを発散し、ぶつける必要はなく。
沸き上がる怒りを押さえ込まず、内的に感じる。
怒りは、湧き上がった。
湧き上がり生まれた。
それは生き物。
認知し、感じてもらうのを待っている。
認知し、感じ味わい、味わい切ってゆく。
そうすることでその生き物は、放たれてゆく。
これが、自然の法。
自然に任せるのがいい。
自然の選択。
自然の選択で、自然に生きる。
自然を選択する。
それは、簡単なようでそう容易くはない。
自然をその法を理解する必要がある。
自然を体験し、法を体験を通して理解する必要がある。
だから、わたし達は不自然を選んだのだ。
今不自然な人たち。
たくさんいる。
その人達、誰もが間違っていない。
自ら不自然に入り込み、不自然を選択し、果ては病氣をも体験する。
そうすることで本来のあり方(自然の法)を体験を通して自ら発見する。
自然の法は愛(調和と許し)からなると言われる。
愛を学ぶため、わたし達は生まれたようだ。
だから、今の自分が不自然だとしても。
いいんだと言うこと。
むしろ自然であるはずがない。
自然を愛を学ぶため、不自然を体験しに来たのだから。
自然を体験すると言うことは、不自然を体験することに他ならない。
陰陽の世界。
どちらもあり、どちらもあるから、陰は陰になり得、陽は陽となることがでる。
そうしてここから。
自然に生きる方が続出し出す。
不自然がある極を迎えた昨今。
自然に還り出すその動きを止める法はこの自然界にはない。
あなたが今、不自然ならば。
不自然なあなたよ。
よく今まで、不自然を体験してきた。
そんなあなたを大いに抱きしめ認め、それで良かったのだと伝えてあげて欲しい。
自然なわたしになろうと頑張る必要はなく。
不自然さを認め、その感覚を味わい自然に任せた時。
あなたは自然へと自動的に向かい出す。
焦る必要は何もない。
全ては、この世の全ては、自然の大きな流れの中から出たことは一度としてないのだから。
ただ、これから身に起こることを受け入れ許し、抵抗を手放してゆくこと。
こうすべきだという思いも。
こうあるべきだ。
これが正しい。
絶対だ。
こんなわたしでなくてはならない。
そんな全ての抵抗を、自然のふるいにかけてゆけたなら。
氣がついた時。
自然な笑顔で笑うあなたがそこにいる。
その日が、刻々と近づいている。
この時代を選び、生まれ出た多くの命たち。
ともに歓喜の中を生きよう。